1 道頓堀のはじまり
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2「(絵本)名物浪花のながめ」三
安永7(1778) |
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7「(狂歌絵本)浪花乃むめ」二
寛政12(1800) |
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5「浪花名勝独案内」
安政6(1859)(昭和7複製) |
道頓堀川の開鑿
道頓堀川は慶長17年(1612)、平野郷出身の土豪成安道頓が豊臣家の命を受け、東横堀川と西横堀川をつなぐ梅津川を広げる運河を起工したことに始まる。道頓は翌年の大阪夏の陣で討死するが、工事は配下の安井道卜らにより継続され、元和元年(1615)完成を見た。当初南堀と呼ばれたこの運河は、道頓の功績をたたえ「道頓堀」と名づけられる一方、道卜には沿岸の開発が命ぜられた。道卜は寛永3年(1626)勘四郎町より芝居興行ならびに遊所を移すことを願い出て許されたことから、それ以降道頓堀は芝居の町として発展していくこととなる。
2 繁栄する芝居町
歌舞伎のはじまりと確立
慶長8年(1603)阿国のかぶき踊りに始まった歌舞伎は女歌舞伎、若衆歌舞伎の時代を経て、野郎歌舞伎として大成する。度重なる幕府の禁止令をそのつど乗り越え、当初の容色本位の芸能から、写実性、戯曲性を発展させ、本格的な演劇として完成し、興行としても延宝・元禄期に確立する。
五座の櫓
大坂における歌舞伎は寛永年間の女歌舞伎の段助一座の定着にはじまり、その後、多くの小屋が乱立するようになる。風紀の乱れを憂えた幕府による取り締まりと興行権確定の方針にともない、承応元年(1652)に名代の検定が行なわれる。このとき、道頓堀では中の芝居・角の芝居・大西の芝居の三名代が許可された。翌年にはさらに二名代が許され、それ以降は、これら大芝居を打つ官許の芝居小屋はいわゆる「道頓堀五座」と総称され、格式を誇るようになる。これらの芝居は時代による出入りを加えつつも、近世を通じて栄えていた。
また浜側では、からくり・曲芸など種々の出し物が行われ、それらは「浜芝居」と呼ばれた。
芝居小屋
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13「世間胸算用」三 元禄5(1692) |
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16「摂津名所図会」四下
寛政10(1798) |
初期の小屋は舞台の上にだけ屋根がある能舞台と同様のものであったが、興行としての歌舞伎の確立とともに次第に整備され、屋内の劇場へと変化する。さらに享保9年(1724)の妙知焼けで多くの小屋が焼失したのをきっかけに現在のものに近い劇場が整備されたと考えられている。
官許の芝居小屋は、その証として表構えの正面に高く櫓を掲げ、三方に幕を張りめぐらし、左右に梵天を立てるようになった。初期の入口は見物人がねずみのように肩をすぼめて潜り込むことから「鼠木戸」と呼ばれ、通り札は往来の床机の上で売られた。元禄期に芝居茶屋ができると茶屋を通した独特の観劇スタイルもうまれ、やがて絵看板、釣看板など派手な装飾が見られるようになる。
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11「難波芦分船」三 延宝3(1675) |
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15「戯場楽屋図会」下 寛政12(1800) |
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15「戯場楽屋図会」下 寛政12(1800) |
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15「戯場楽屋図会」拾遺上
寛政12(1800) |
舞台装置・道頓堀発
今日まで続く舞台装置の数々には道頓堀で開発されたものが多くある。歌舞伎作者・演出家の並木正三は、宝暦3年(1753)大西の芝居で三間四方の大規模なセリ上げを披露し衆目を驚かせたのを始めとして、同8年角の芝居で廻り舞台、11年宙吊りを考案するなど、後世の演出に大きな影響を与えた新機軸で人気を博した。これは、芝居茶屋の子として楽屋や奈落を遊び場として育った正三の「道頓堀の才能」の開花であった。
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20「戯場楽屋図会」下 寛政12(1800) |
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20「戯場楽屋図会」下 寛政12(1800) |
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