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第2回大阪資料・古典籍室1小展示
平成8年6月17日〜7月30日


府立図書館展覧会の歴史


図書館ものがたり その1


「府立図書館展覧会の歴史」展示外観



図書館開館前後のこと


 この府立図書館は、大阪図書館という名称で明治37年3月1日に開館した。建物および図書のための基金は住友第15世吉左衛門友純の寄贈によるものであった。
 明治初期の大阪の図書館関連の施設はというと、大阪舎密局(明治2年開講、以後幾多の変遷を経て蔵書を含め京都の三高に移った。碑文が谷町四丁目交差点東にある)、大阪府書籍館(明治9年、小学校に付設)、府立博物場(同年開設、蔵書は一部当館に引継ぎ)、愛日文庫(明治5年、山片家寄贈、和漢の貴重書多数)などが存在していたが、規模からしても、公開性(閲覧券が必要ではあったが)からしてもこの大阪図書館の開館は待望久しいものがあった。
 開館してから1カ月間の一日平均閲覧者は253人、ほかに館内見物も50人ばかりいたという。

1.大阪書籍館 『大阪名所独案内   明治15年      378-1022
2.大阪府立博物場 『浪花大阪名所』   明治35年     378-756
3.明治期図書館関連年表
4.開館当時の大阪図書館 『大阪朝日新聞』   明治37年3月16日
5.開館当時の図書館日誌(館資料)





開館時に第1回展覧会


 さて、展覧会である。当館の第1回の展覧会は、開館2カ月後の5月14日に開かれた。市内の蔵書家30名によびかけて「珍奇書」350点の出品を得た。稀覯図書の展覧会であった。

6.『大阪図書館第一回図書展覧会列品目録』 (館資料)
7.第一回展覧会当日の日誌(館資料)
8.『大阪図書館第二回図書展覧会列品目録』 (館資料)

 当時の展覧会は、このように、普段あまりみることのできない一級の資料を、館外の有志から借り受けて公開・展示をおこなう、いわば眼福を得る、というものであったようだ。 当館で展観のあった明治大正期の主要な展覧会については、多治比郁夫「大阪府立図書館の展覧会」『大阪府立図書館紀要』第3号を参照していただきたい。



当時の展覧会の背景−「人文会」


 これら開館当初に開催された展覧会のうち、明治42年11月の「稀覯図書展覧会」以降数回にわたる展観は、当館を会場として開かれた「人文会」という会合に合せて開催されたものであった。
 戦前期の展覧会は、こうした、当館の図書館長をまじえた文人たちの交流を軸として開催されたものが多く存在していた。 あとででてくる昭和10年開催の「恭仁山荘善本展覧会」もそうした展観のひとつであった。

 それではここで、いささか迂遠なみちのりとなるが、こうした展覧会の背景をなしていた「人文会」や「近畿図書館倶楽部」、そして大阪図書館開館当時の図書収集におおきく寄与した鹿田松雲堂のことを一瞥しておく。

 開館時から古書の収集については大阪の古書店鹿田松雲堂が力をつくした。そして開館記念にと店主鹿田静七は『論語』を寄贈している。これは正平19年(1364 年) の刊行で、現在の当館の貴重書のうちでも依然として第一級のものである。
 その古書店鹿田松雲堂の周縁には内藤湖南(東洋学者、本名虎次郎、朝日新聞記者からのち京都帝大教授)や幸田成友(経済史家、大阪市史、大塩平八郎などの研究家)、島文次郎(京都帝大図書館長)、それに今井貫一(当館初代館長)らが集い、書籍の収集をめぐって「暗闘」をくりひろげていたという。

9.『古典聚目』 1号、 『書籍月報』『古典聚目』解題   031-91#

 こうした交流を背景に、明治42年9月4日、大阪の文化を語り合う会として、「人文会」が結成となり、当館を会場として開かれた。来会した人たちは、西村天囚、渡辺霞亭、永田有翠、水落露石、角田浩々、木崎好尚、鹿田静七らで、座長は今井館長、会の常務に木崎と上松寅三(当館司書)が。選出された。
 例会ごとに講演がもたれ、この第一回の会合では、木崎好尚「篠崎小竹の伝」、小山田松翠が「大阪演劇の創始時代」と題して話があった。

 第二回の「人文会」は同年の11月14日。このときの講演は、西村天囚が、懐徳堂のこと、生田南水が暁鐘成について語っている。この会には島京都帝大図書館長も参加している。そして第二回の会合から、関連図書の展示がおこなわれ、それが以降の慣例となった。さらにこの席上で、天囚が懐徳堂記念会の設立を提案し、それがきっかけとなり、明治43年9月27日、発起人会を開催、記念会が発会することとなる(以上、多治比郁夫「大阪人文会覚え書」『なにわづ』72号)。

 このときの展覧会のことを宮武外骨が『このはな』に書いている。第三回の人文会に合わせ開かれた、大阪の風俗に関する展覧では、木崎好尚の蔵本『夜長草紙』、大丸呉服店の蔵本『装束記』が珍書であろう、と記している。各界で興味を惹いたであろうことがうかがわれる。

10. 明治42年11月の稀覯図書展覧会当日の図書館日誌( 館資料)
11 .『このはな』  第3枝     571-76

 この時期明治42年から44年の間に開催された展覧会は、この「人文会」に合わせて開かれた稀覯図書展覧会を含めるとなんと9回に及んでいる。開館当時の意気込んだ雰囲気を感じ取ることができようか。



もうひとつの背景−「近畿図書館倶楽部」


 また、この時期の中頃は、京阪神の図書館の開館ラッシュ、草創期にあたっていた。京都府立図書館は明治31年、京都帝大図書館は明治32年、当館が明治37年と、その開館の時期をほぼ同じくし、各館および各館館長はきそって資料の収集にあたった時代であった。さきの鹿田松雲堂の古書をめぐっての「暗闘」もそのひとつのあらわれである。

 そうしたなか、図書館を会員とし、その館務の報告・研究を目的とした団体「近畿図書館倶楽部」の結成が呼びかけられた。その呼びかけ人は、新村出(京都帝大図書館長)、湯浅吉郎(京都府立図書館長)、今井貫一(当館館長)の三人であったといわれる。

 それは大正2年のことで、発会式は9月21日にもたれた。この発会の経緯には、さきの「人文会」による交流や人脈のほかに、明治32年から活動をはじめた「関西文庫協会」(機関紙は『東壁』)も深く関っていた。 

 この会合は、当館を会場としても開催されている。会場にあたったときにはかならずしも展覧会を開催したわけではないが、昭和3年5月26日の19回総会は中之島公会堂が会場で、会終了後当館主催「和漢本草図書展覧会」の見学をおこなっている。(この近畿図書館倶楽部については、仲田惠弘「近畿図書館倶楽部(近畿図書館協議会)事歴稿」『大阪府立中之島図書館紀要』17号を参照)。

12,13. 「和漢本草図書展覧会」昭和13年(館資料)



「恭仁山荘善本展覧会」


 こうした、京阪の図書館風土を背景として、昭和10年3 月26日には、「恭仁山荘善本展覧会」が開かれた。恭仁山荘とは京都相楽郡瓶原村の内藤湖南の居宅である。
 内藤湖南は慶応2年、南部藩の陪臣儒者の次男としてうまれた。政教社同人、『日本人』の編輯を経て朝日新聞社記者。明治40年、京都帝国大学文科大学に史学科が設けられるにともない狩野亨吉に招かれて講師、のち教授となる。
 狩野直喜とともに東洋史の京都学派を築いた。昭和9年に湖南は亡くなったが、その旧蔵書がここ府立図書館で展観されたというわけである。今井貫一館長らとの交友がこの展観を実現させたのであった。

 湖南はその蔵書を、明治32年に一度焼いている。その蔵書のうちには、明治29年大阪の朝日新聞社を退社して東京へもどる際、船で送ったという千余冊も含まれていて、その書物のほとんどが鹿田松雲堂で購入したものであったといわれる。湖南は、没後数万巻の書物を遺したが、それらの書物のうち善本の多くは、明治33年からふたたび大阪の朝日新聞ですごした6年間に鹿田松雲堂から購入したものであったという。その善本が当館で展観された、というのも、なかなか因縁めいたものを感じる。

 さて、展観は、氏の遺蔵書から約100部を選んで、昭和10年3月26日から28日までの3日間開催された。目録は76頁のものが作られたが、展観を記念して『恭仁山荘善本書影』と名付けられた豪華な図録も刊行されている。

14.「恭仁山荘善本展覧会」へのご案内   図書館日誌(館資料)
15.『恭仁山荘善本書影』  (21−76)
16.恭仁山荘善書斎での内藤湘南『内藤湘南全集』 第11巻    (330−347#)
17.「恭仁山荘善本展覧会」の芳名録 (館資料)

 これらの書物は、昭和13年、一括して武田家に譲渡され、杏雨書屋に収められた。この恭仁山荘善本の譲渡にあたって、羽田亨京都帝大教授(昭和11年から第4代附属図書館長)が、同附属図書館の司書官を退任した山鹿誠之助(昭和12年退任、山鹿素行の子孫)にその解読書の作成を依頼し、それは昭和14年12月に完了して武田家に渡された。昭和60年になり、この山鹿の解説を付して、『新修恭仁山荘善本書影』が刊行されている。
 そこでは、羽田亨のご子息明氏が、杏雨書屋館長として「序」と「内藤湘南博士と恭仁山荘善本」、それに、「山鹿誠之助氏略伝」を書いておられるが、こうした書目・解説作成者といったいつも影にある存在に対しても忘れず記念する姿勢には頭がさがる想いがする。

18,19,20.『新修恭仁山荘善本書影』   (012−83#)
21.『大阪府立中之島図書館九十年』

 羽田明氏は、「山鹿誠之助氏略伝」の最後にこう記している。

 氏の遺稿『恭仁山荘善本解説』の公刊に際して、内藤博士と山鹿氏との関係を顧みて、因縁の不可思議を覚えること切なるものがある。

 この山鹿は、新村出館長のよき補佐役であったし、その新村はさきの「近畿図書館倶楽部」に幾度か参加している。山鹿も新村に伴いこの図書館に幾度かやってきたのかもしれない。府立図書館の展示を機会に、こうした、書物を巡り書物に集った人びとの交流をあわせて考えてみると、まことに、書物を巡る「因縁の不可思議」、数奇な運命を覚えることしきりといわねばならない。