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第16回大阪資料・古典籍室1小展示
平成10年1月10日〜2月14日


図書館草創期の図書寄贈




― 図書館ものがたり 4 ―


「図書館草創期の図書寄贈」展示外観

 当中之島図書館が大阪図書館として開館したのは、いまからおよそ95年前の明治37年3月のことである。そして今井貫一が初代館長に就任したのが36年4月、このころから図書館として立ちゆくための準備が急ピッチで進められた。建物の建設、職員人事などとならんで、なんといっても図書館の生命線は資料であった。今井館長らは、府立博物場や常安町の仮事務所で資料の収集に励んだ。

 資料の収集や蔵書の構築にとって重要な位置を占めるのは、購入することと並んで寄贈を受けることである。寄贈によって得難い資料が蓄積されていく。この図書館でもその草創期に多くの図書や雑誌を寄贈された。それは開館後も続き、豊田文三郎や岡本敬太郎、岡島伊八、住友家など大きな寄贈もあった。

 今回の小展示では、明治36年から37年にかけての図書の寄贈について、残された「寄贈願書」から幾つかを取り上げて紹介することとする。これらの寄贈は比較的小規模なものではあるが、なかに当館で今なお第1級の資料として誇るべきものも多く含まれていて、それらの来歴を知ることも意味あることと思い取り上げた。

 この寄贈願書には95件が綴られている。それらのうちには、この図書館開館前後に今井館長と親しく交わっていたひとからのもの、故人となったひとまた物故者の記念にと寄贈されたもの、出版社や書店からのもの、さらに著者自らの寄贈、また当館から寄贈の依頼をしたと思われるもの等様々である。なお、この寄贈願書の綴りは年次の順とはなっておらず、この記述も綴りの順である。また願書のあとに附した番号はこの綴りにつけた一連番号である。



今井館長関係と思われるひとのもの


 まず住友吉左衛門(7)。執事からの願書で、『和蘭貨幣史』4冊、『万国今代史』29冊、『日本紀事』1冊、『仏文博物学』1冊、『銅版画 江漢画』4枚、『銅版画 西洋古版』44枚の6点である。
このうち『和蘭貨幣史』『仏文博物学』は、オランダ商館長ファン・レーデから泉屋吉左衛門(住友)への献辞に記された書物『オランダ紀念貨幣史』『フランス百科全書』(図版)である。
 『日本紀事』はケンペル『日本誌』(1733年蘭訳本)、そして『銅版画』は眼鏡絵で、昨年の特別展示で展覧したしたもの(「大坂が見た異国」図録参照)。

 この願書は住友家便箋に書かれ日付がないが、明治37年5月14日から16日まで開催された「大阪図書館第1回図書展覧会列品目録」にはこの6点をふくめた9点が「住友吉左衛門君出品」として出品されており、またその受け入れ日付が6月16日なので、形式的にはその間のものということになる。
 展覧会でお披露目がありその後図書館に寄贈されたわけである。

 鹿田靜七、松雲堂の用箋で明治36年12月21日付け、正平本論語1函4冊(21)。この靜七は三代余霞。鹿田松雲堂は明治大正にかけて大阪の出版文化界において大きな位置を占めてきた。
 ちなみに大正14年刊の古書目録『古典聚目』100号記念号には、内藤虎次郎(湖南)・大槻如電・磯野惟秋(秋渚)・幸田成友・今井貫一・亀田次郎が原稿を寄せているがこの松雲堂をめぐっての交遊がうかがわれる。この寄贈された論語は、正平19年(1364)の出版で、いわゆる正平版論語の祖版である。

 このことは、昭和6年5月に全国に所蔵される140点の論語を集めて開催された「論語展覧会」で川瀬一馬、長田富作(昭和8年第2代館長)の調査の結果判明した。その成果は昭和8年に『正平版論語集解』にまとめられた。

 大阪市役所大阪史編纂 明治36年10月21日、幸田成友の名(76)で、"Kyoto Japan"、『大阪と博覧会』など4点。幸田成友は、大阪市史編纂長への就任を要請され来阪、明治34年5月に辞令を受けている。さきの鹿田松雲堂をめぐる人物にも登場しているように書物をめぐり「暗闘」を繰り広げたひとりで、この時代、京都では京都帝国大学(明治32年開館 島文次郎館長)、京都府立図書館(明治31年設立 36年湯浅吉郎館長就任)、それにこの大阪市史編纂事業、そして大阪府立図書館と資料の収集をめぐって大いに競いあったことが推測されるところだ。
 ついでにいえば、この博覧会とは、明治36年3月から大阪の地で開催された第5回内国博覧会で、この博覧会関係の寄贈願書としては、大阪府博覧会事務所から博覧会出品の統計表が明治36年8月に、また同じ8月に、博覧会に出品しその後に印刷された『大阪府東成郡田辺村村是』が農会長から寄贈されている。



故人また物故者の記念として


 明治37年1月27日付けで大阪朝日新聞は、「物故社員遺功記念図書」として1000円を寄付した(73)。願書には、新聞創刊25周年に当り創業以来物故した社の客員(7人)・社員(28人)・雇員(45人)の名前を記しその遺功を記念するため当館に図書を寄付し永遠に保存し広益に資することを目的とする旨が述べられている。
 客員には、高橋健三、津田貞、船井長兵衛、小室信介、天野皎、木村平八、北尾禹三郎が上がっている。このうち高橋は『日本人』に依る国粋主義の論客で、25年内藤湖南を伴い入社、東京朝日の杉浦重剛とならび東西で論陣を張った。津田貞は朝日新聞という名の名付け親で、木村騰、村山龍平らの手で創設された新聞に命名し大阪新報から引き抜かれて主筆となった。

 板垣退助らとともに民撰議院設立建白書を提出した小室信夫を義父とする小室信介は『大阪日報』で社長をつとめ自由民権の論陣を張ったが13年末主任として朝日に迎えられた。早速かれは「平仮名国会論」を連載したのだったが翌年1月25日に大阪府知事から発行停止の処分を受けた。
 また15年4月、遊説中の板垣退助が岐阜で刺客に襲われたとき立憲政党新聞特派で現場に居合わせた小室は記事を立憲政党新聞に掲載、それを朝日が8日付けで転載した。
 有名な「板垣死すとも自由は」のフレーズは板垣が同志に静かに諭した言葉であった。木村平八は騰の父で朝日創設時の出資者、北尾禹三郎は大阪毎日の岡島新聞鋪とならんで朝日新聞の売捌所として販売を一手に引き受けていた。
 ちなみに創刊号から名前を出した朝日の売り捌き店は、靜霊堂俵新助、宝文館吉岡平助、北尾禹三郎、日弘堂袖岡喜兵衛(神戸)、伊藤和七郎(姫路)であった。また社員のなかには、創刊時から主幹津田貞のもとで健筆をふるった岡野武平や西村天囚の弟時輔の名もみえる。

 明治37年5月13日には、「故大阪株式取引所員黒田勇治郎記念図書として」大阪朝日新聞社辰井梅吉の名義で提出された願書がある(86)。そこには、本人の遺志により遺族に代わって取り計らった旨の但し書きがある。辰井梅吉は大阪朝日の経営面での柱とされたひとで、高橋健三の書生であったが、岡倉天心や高橋健三らの創刊(明治22年)した美術雑誌『国華』の出版を手伝っていたところを見込まれて28年朝日に入社している。
 この黒田勇治郎寄贈図書は『万葉集古義』『増補雅言集覧』など5点で、「故大阪株式会社取引所員黒田勇次郎紀念寄贈図書記」の印記が書物に押されている。



出版社・書店関係


 明治37年3月9日の日付で金尾文淵堂の金尾種次郎から、菊池幽芳『七日間 前編後編』水谷弓彦『菅公実伝』等数点の寄贈があった(42)(書名は願書のまま)。
 金尾種次郎は大阪で父の出版業を継ぎ、金尾の家には文学青年が出入りしていろいろな会合が開催されたという。ここから文学雑誌『ふた葉』が創刊された。明治32年には薄田泣菫『暮笛集』を刊行、33年にはこの泣菫に編輯を依頼して『小天地』を創刊した。編輯陣は角田勤一郎(浩々歌客)、平尾不狐、賛助員に巌谷小波、泉鏡花、徳富蘇峰、与謝野鉄幹、高安月郊、内藤湖南らが名を連ねていた。この前後に出版した書物を寄贈したことになる。種次郎はその後明治38年に上京している。さきの書物のうち、『社会主義詩集』は発売禁止となりまた『大阪名勝図会』の木版の美しさは当時話題になった。

 明治30年代なかごろから40年にかけて大阪の出版界も盛んとなっていくが、当時、大手取次問屋であった吉岡平助の吉岡宝文館からも数多くの寄贈がなされた。
 宝文館からの願書は8通見えるが、そのひとつ、明治36年7月29日のもの(54)には、京都大学図書館の館長で当館初代館長今井貫一とも交遊のあった島文次郎『英国戯曲略史』などがある。この島文次郎も当館に、古活字版『日本書紀神代巻』2冊を寄贈している。またこの宝文館に当初勤めのち東京で同文館を興した森山章之丞からも自社の刊行物の寄贈がなされている(52)。

 また明治43年吉川弘文館と改称した吉川半七からの寄贈願書もある(56)。半七は明治3年吉川書房を開き「来読貸観所」を設置したりし明治10年ころから出版も兼ね33年ころから弘文館と称し吉川弘文館となった。
 寄贈図書は、井上頼圀・大槻如電合撰『東西年表』など18件である。また大阪書籍の社長となった三木佐助からのものもある。『近世無機化学』『言海』など4点である。明治33年の大和田建樹作詞『鉄道唱歌』の出版は大ヒットであった。
 さらに丸善からは1729年刊仏訳版のケンペル『日本誌』の寄贈が36年28日に出されている(94)。「開館記念トシテ寄贈致したく」とあり、また価格は70円也とされている。



本人の著作その他


本人の著作の寄贈はこの願書の綴のなかにも数多くあるが、ここでは、湯川玄洋のものを取り上げる。
 明治37年3月20日付けで肩書きは大阪胃腸病院長とある(44)。書物は、ドクトル湯川玄洋著『胃腸病診療新書』であった。玄洋は長与称吉に学んだあと洋行し、帰国後、明治35年に久宝寺町で開業、その2年後今橋に移転した。
 玄洋の跡は長男靖洋が継いだ。また靖洋とは異母兄弟となるが、玄洋には長女スミがいて、スミは玄洋と友人であった緒方婦人科病院長緒方正清に取り上げられ、のちに京都の物理学者小川英樹と結婚してそのまま湯川姓を名乗った。
 湯川玄洋は、明治44年に入院した夏目漱石に「言葉遣ひや態度にも容貌の示す如く品格があった」(『行人』)とその印象を書かれたが、その漱石は最初の吐血のときには東京の長与称吉の病院に入院しており、「東の長与、西の湯川」と当時いわれた胃腸病院の両方に漱石は入院したということになる。

 高安三郎(月郊)からの願書もある(82)。月郊は詩人・劇作家で、明治26年に我が国で初めてイプセンを紹介した。明治27年創作戯曲『重盛』をあらわす。
 各地を歩いたのち京都に住む。リヤ王翻案『光と闇』、『江戸城明渡』など書き川上音二郎一座により上演された。月郊が京都寺町荒神口上ル宮垣町の地から高安三郎という本名で寄贈した図書は、『The Athenium』(文学科学美術音楽戯曲週報去年1月ヨリ12月マデ)、『ひさみぐさ』『春雪集』『夜濤集』『重盛』の5点であった。このうち『夜濤集』には「月郊」と蔵印が押されている。
 大阪図書館の開館にあわせて塩見伊八郎から、明治12年1月25日刊行朝日新聞第1号が、(帙入り製本、大阪朝日新聞社経由で)寄贈された。これも当館開館記念として象徴的な寄贈であったといえる。

 以上、寄贈願書の綴から10数点を紹介してきた。先に述べたように、図書館の蔵書のかなりの部分は寄贈によって築きあげられる。最後にこの寄贈願書に綴られているかたがたの名前を以下に記しておきたい。もちろんこれが当館草創期の寄贈のすべてではない。実際の寄贈者はこの何倍かに及んでいたはずである。



 大阪郵便局物品会計官吏今井広雅、山本憲、矢野半次郎、園田孝吉(園田には『園田孝吉伝』の伝記がある、中央352-1641)、
兵庫県所期永井環、倉田木綿店(複数)、住友吉左衛門、藤井誠、辻井直次郎、細田礼行、特許局、神宮奉斎会大阪本部、桑田写真器械鋪桑田正三郎、勝谷米造、集画堂吉江治平、飯田礼、肥田小一郎、経済時報社主幹鷹居匡、早稲田大学図書館、早瀬商店店員島田伊兵衛、鹿田靜七、書肆吉岡宝文館吉岡平助(複数)、川路寛堂(寛堂著『川路聖謨』)、集成堂石井鉤三郎、金親雄、毎日繁昌社、桑田商店、早稲田大学出版部(複数)、西村啓造、大阪市足袋装束商組合足袋会代表者難波信蔵、メリヤス商三宅喜之助、楠本正翼、曲淵景章代大槻弌、藤枝正憲、永井兵庫県書記官、加藤正雄、金尾種次郎、津田源兵衛金尾種次郎委託、湯川胃腸病院長、岡本和、府立大阪一等測候所長下野信之、北村清三郎、高山民吉、高知県知事官房、加太邦憲、高木照雄、同文館主森山章之丞、文求堂田中次兵衛、吉川半七、丸善(複数)、大阪府博覧会事務所、(大阪府)内務部長山田新一郎(複数)、住友本店鈴木馬左也、湯川理一郎、松村敏夫、豊浦包松、藤原久吉郎、海老友三郎、東成郡田辺村農会長三橋長兵衛、大阪朝日新聞社、大阪府立医学校長佐多愛彦、大阪市役所、大阪市役所大阪市史編纂所幸田成友、k.sumitomo、片岡直温、内閣統計局、高安三郎、大阪税務監督局(複数)、和田昌夫(複数)、(大阪朝日新聞経由)塩見伊八郎(明治12年1月25日刊行朝日新聞第1号)、黒田勇次郎の遺志として大阪朝日新聞辰井梅吉が代理)、三木佐助、和井田嘉一、水野弥兵衛、船路標識管理所長草間時福、大阪市北区長梶原平太郎、川口嘉、清国天津駐屯歩兵大隊将校総代大隊長奥野光照