〈百人一首とかるた〉
日本人が子供の頃からお正月のかるた遊びで馴染んでいる『小倉百人一首』。鎌倉時代の歌仙秀歌集である『小倉百人一首』が広く親しまれるようになったのは、それが”歌かるた”として用いられたことにある。
かるた遊びの原形は、室町時代に公家の間で、細長い紙に上の句と下の句をそれぞれ一行に書き、それを縦半分に切って混ぜ合わせ、歌を合せて遊んだことにあるといわれる。 後に厚紙に代わって蛤貝が用いられ、貝覆という遊びになった。
内側に金銀の絵の具で豪奢な絵を描いた貝の一片に上の句、もう一片に下の句を買いて、一対の貝を多く集めた者が勝者になる遊びで、町家にも流行した。
足利時代末期に、ポルトガル人によりカルタが伝えられ、これが伝統的な貝覆の遊びと結びついて歌かるたが生まれたといわれる。元禄の頃には木版刷りの安価な百人一首かるたが出回るようになり、庶民の間にも『百人一首』が急速に浸透していった。
明治時代になると歌かるたはさらに発展し、一般家庭でもかるた会が開かれるようになった。尾崎紅葉はこの流行をとらえ、明治30年から読売新聞に連載が始まった『金色夜叉』の冒頭に、「歌留多遊」の情景をもってきている。また、萬朝報社の社長であった黒岩涙香は明治37年に総ひらがなの現在の標準かるたを考案し、2月に萬朝報社主催の第一回公式かるた大会を東京で開いた。明治45年には大阪の浪花倶楽部において、第一回のかるた全国大会が開催されている。
昭和になって、第2次世界大戦中、一時『小倉百人一首』でのかるた会は非難され、代わりに幕末の志士の歌を多く採った国粋主義的な『愛国百人一首』が使われたりした。
現在は全日本かるた協会主催で、競技かるた大会が毎年開かれている。
”百人一首”は秀歌撰の一形態で、歌人百人につき各一首の秀歌を選んだものであるが、その始まりは藤原定家の『小倉百人一首』である。この展示では、『小倉百人一首』とその注釈書、そして『小倉百人一首』の体裁を借りて、江戸時代から現代に至るまで出版されている夥しい数の類書の”百人一首”=異種百人一首の中から幾つかをみてみたい。
◎『小倉山荘色紙和歌』
- 1冊。 藤原定家(1163-1241) 撰。文暦2年(1235)成立。
『小倉百人一首』『百人一首』のこと。
- 定家の子、為家の舅である宇都宮頼綱(蓮生)の求めに応じて、定家が嵯峨小倉山荘において、天智天皇から順徳院まで百人の歌人の秀歌を各一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫したもの。歌はほぼ時代順に配列され、すべて勅撰第一集から第十集の歌集から選ばれていて、うち九十四首までが八代集の歌。『古今集』からの歌が最も多く二十四首。恋歌が最多で四十三首。作者は男性79人、女性21人。
- 現存最古の『百人一首』の注釈書である応永本『百人一首抄』(応永13年(1406)藤原満基著)
に、はじめて『百人一首』という通称的な呼び方がみえる。当時の難しい政治情勢がからみ、作品の成立にはかなり複雑な経緯があったと推測され、古来より今日に至まで様々な論議が繰り広げられている。
◎『小倉百人一首』の注釈書
- 中世から近世初期にかけては、『百人一首』は貴族の間で和歌秘伝の書として尊重され、数々の秘伝書、注釈書が生み出されていった。元禄の頃になると、次第に学問は一般民衆のものとなり、『百人一首』はもっぱら良家の子女の教養書や書道の手本として尊ばれるようになった。また、これが「歌かるた」として遊びと結びつくようになると、『百人一首』は一層庶民のものとして親しまれた。歌学者によって様々な注釈書が盛んに出版され、広く愛読された。
- 現在も多くの『小倉百人一首』研究書、種々の鑑賞の手引書が出ている。最近のものでは、『小倉百人一首』を単なる秀歌撰として見ないで、選者の定家が”ある意味”を隠すために選んだ歌集であるとして、自然科学的な手法でアプローチして『小倉百人一首』の謎を解きあかそうとしているものや、パソコンを駆使して一首ごとに綿密に再検討をし、新たな百人一首像を描き出そうとしている研究書もある。
◎異種百人一首
- 『百人一首』は、定家撰の『小倉山荘色紙和歌』をさしていたが、この百人各一首形式に倣って様々な”百人一首”が出るようになって、これらと区別するために定家のものを『小倉百人一首』『小倉百首』と呼び、これ以外の多種多様な類書を”異種百人一首””変わり百人一首”と呼ばれるようになった。
- これには和歌の他に俳句、川柳、漢詩など広い範囲にわたるが、『小倉百人一首』の形式を借りただけのものと『小倉百人一首』そのものをもじって戯作歌にしたものとに大別される。現代に至るまで出版され続けている夥しい数の”異種百人一首”は、『小倉百人一首』が広く人々の間に根ざしているあらわれと言える。
展示資料
- ○『小倉百人一首』 1冊 池辺義象等書 風俗絵巻図画刊行会 大正5 224.5-618
○注釈書
- ・『百人一首改観抄』 3巻3冊 契沖撰 写 224.6-576
-
巻頭に『小倉百人一首』の成立と由来、以下各歌ごとに注釈を施す。後の『小倉百人一首』の注釈に大きな影響を与えた。
- ・『百人一首基箭抄』 3巻3冊 井上秋扇著 寛文13(1693)刊 石224.6-3
- 細川幽斎の『百人一首抄』を参考に編集したもの。作者の伝記と歌の解釈。後に出版された絵入版本は広く読まれ『百人一首』の啓蒙に大きな力となった。
- ・『百人一首拾穂抄』 2巻4冊 北村季吟著刊 224.5-582
- 古注を整理集成したもの。平易なためか江戸時代には版を重ね、他の類書にぬきんでて流布した。
- ・『百人一首秘訣』 1冊 川井立斎写 天明3(1783)刊
224.5-594
- 筆者・川井立斎は歌人、又医者。大坂尼崎町一丁目の町年寄を勤めた。父立牧も歌で名がある。
- ・『百人一首一夕話』 9巻9冊 尾崎雅嘉著 大石真虎画 天保4(1833)刊 224.5-584
- 歌の評釈とともに各作者のエピソードを詳しく語り、読み物としておもしろく編集。豊富な挿画が本文の理解を助け、通俗的だが広く愛読された。
- ・『百人一首図絵』 3巻3冊 文化4(1807)刊 田山敬儀注釈
224.5-572
- すべて図絵によって歌の理解を深めようとしたもの。「月」の巻に歌と作者の肖像など、「雪」「花」の巻に絵入りの注釈。
- ・『百人一首万葉』 1冊 [中川常樹著] 刊 224.5-574
- 一頁に一首ずつ歌を万葉表記し、歌仙絵を入れ注を施したもの。
- ・『七家輯叙 小倉百人一首』 早川自照編 淡心洞 昭和15年
224.5-624
- 定家卿七百年祭記念七百部限定出版
○異種百人一首
- ・『新百人一首』 1冊 [足利義尚撰] 明暦3(1657)
刊 224.5-554
- 足利九代将軍義尚が文明15年(1483)に撰した歌集。文武天皇から花園院までの『小倉百人一首』に入っていない歌人の歌を収める。
- ・『後撰百人一首』 1冊 [二条良基撰?] 淵上旭江画 文化4(1807)
朝日224.5-15
-
村上天皇の歌以下を収める。
- ・『犬百人一首』 1冊 幽双庵著 米山堂 大正8(稀書複製会
第1期 寛文9(1669) 刊の複製)
- 歌人名のもじり狂歌( 本文もじり)、歌意に応じた挿画。『小倉百人一首』のもじり狂歌集として最古のもの。絵は風俗画としても貴重。
- ・『川柳百人一首』 1冊 三箱編 四世川柳校 歌川国直画
224.9-2
- ・『秀歌百人一首』 1冊 緑亭川柳編 葛飾北斎等画 弘化5(1848)
224.5-548
- ・『狂歌百人一首』 1冊 刊 229.3-202
- ・『愛国百人一首』 川田順著 大日本雄弁会講談社 昭和16年(1941)
224.5-293#
- ・『平和百人一首』 平和の鐘建立会 昭和25年(1950)
224.5-327#
- ・『現代学生百人一首』 5周年記念 現代学生百人一首編纂実行委員会編 東洋大学 1992 911.16-455N
- ・『現代百人一首』 岡井隆編著 朝日新聞社 1996
911.16-519N
- ・『川柳と百人一首』 宮武外骨著 半狂堂 大正13(1924) 229.4-34
- 宮武外骨が20年間に蒐集した160余種の異種百人一首の目録あり。
(主な参考文献)
- ・『跡見学園短期大学図書館蔵百人一首関係資料目録』
911.14-74N
跡見学園短期大学図書館編 跡見学園短期大学 1995
・『百人一首古注釈の研究』 田中宗作著
桜楓社 1966 224.5-325#
・『百人一首と秀歌撰』 『和歌文学論集』編集委員会 (和歌文学論集9)
911.14-52N
・『百人一首の新考察 定家の撰歌意識を探る』 吉海直人著 世界思想社 1993 911.14-44N
・『百人一首』 平凡社 1991 ( 別冊太陽)
911.14-50N
・『絢爛たる暗号』 織田正吉 集英社
1980 224.5-399#
・『百人一首の世界』 林直道著 青木書店
1986 224.5-499#
・『百人一首』 丸谷才一編 河出書房新社
1983 (別冊文芸読本) 224.5-469#
・『百人一首の世界』 千葉千鶴子著 和泉書院
1992 911.14-28N
・『日本のかるた』 浜口博章 山口格太郎著
保育社 1979 (カラーブックス) L91-282N
・『黒岩涙香』 涙香会編 扶桑舎 1922
352-1481#
- 《光琳百人一首歌かるた》
・『百人一首』 平凡社( 別冊太陽) より
|