第8回大阪資料・古典籍室1小展示 平成9年2月1日〜2月27日 |
宮武外骨の大阪 |
宮武外骨(みやたけがいこつ)。1867〜1955年。この奇妙な名を持つ人物は生涯に40点以上もの雑誌を刊行した。その一方で、風俗研究家としても活躍し『筆禍史』や『賭博史』などの著書も70点ばかり残している。 その外骨が最も活動的だったのが、ここ大阪である。彼の代表的な雑誌『滑稽新聞』は、東京での雑誌刊行に失敗した外骨が再起を賭けて大阪で刊行したものだった。その内容は、腐敗した権力、これにこびるマスコミ、戦争に沸く庶民への風刺であった。大阪の風土に合ったのか、『滑稽新聞』は売上を伸ばし、外骨の発行した雑誌の中でも最高の8万部を誇るにいたる。 しかし、歯に衣着せぬ言動に度々当局から処分を受け、『滑稽新聞』発刊中だけでも、関係者の入獄が5回、罰金刑は16回に及んだ。これらの処分に対して外骨は『滑稽新聞』の刊行を自ら停止するが、最終号を「自殺号」とするなど、権力への風刺は止めなかった。
〇 滑稽新聞 (明治34年1月〜明治41年10月) 雑誌を刊行する一方で外骨は浮世絵などの風俗物の出版も手掛け、滑稽新聞社から雅俗文庫を分立する。この雅俗文庫は「武士道=日本の精華」とする当時の思潮に抗したもので(木本至『評伝 宮武外骨』 303ペ−ジ)、この文庫から出版した『筆禍史』で、著述家としての名も挙げることになった。 大阪での再起は成功したかにみえた。しかし、当時危険思想とされていた社会主義に接近、『平民新聞』の刊行を援助し、当局からマ−クされる。また、大正4年の第12回衆議院総選挙に出馬するが落選。結果的に「スッカラカン」になって大阪を離れることになる。
I.外骨の雑誌1) 入獄一覧(評伝 宮武外骨 木本至著 社会思想社 212−214ペ−ジより)
II.外骨の著書6) 筆禍史 宮武外骨著 雅俗文庫 1911年 (018−8#)
III.外骨評伝14) 外骨という人がいた! 赤瀬川原平著 白水社 1985年 (352−10183#)
〔参考文献〕・外骨という人がいた! 赤瀬川原平著 白水社 1985年 |