現在、景気の低迷で厳しい状況が続いている百貨店業界。しかし、都市生活者にとって百貨店は身近で便利で欠くことの出来ない存在である。
百貨店が広く市民生活に浸透するようになったのは、大正期以降、都市人口が増加し、第一次大戦景気で資産を増やした中産階級や所得水準が向上した勤労者によって大量消費時代を迎えてからのことである。また、その頃の大阪市は、市域の拡張も重なって人口が大幅に増え、東京を凌ぐような大都市に発展し、百貨店が伸びる土壌が揃っていた。
百貨店の起源は、1852年パリに設立された小間物店“ボン・マルシェ”だといわれる。正札制、自由閲覧制などの導入による革新的な小売販売方法によって大成功し、それが世界各国に広がっていった。日本の百貨店の始まりは、明治38年(1905)年頭、全国主要新聞や雑誌に掲載された三越呉服店の一面広告、日本初の“デパ−トメント・ストア宣言”にある。これは、三井呉服店の一切の業務を三越呉服店に譲渡したことを報告するとともに、長い歴史をもつ呉服店が百貨店として生まれ変わることの意思表明でもあった。
わが国の百貨店は、老舗の呉服店から出発したものと、後発の私鉄のタ−ミナル利用から出発したものと大きく二つの系統に分けられる。三越、高島屋、大丸、十合、松阪屋などの大呉服店は、明治40年前後に店舗を増改築し、揃って百貨店に生まれ変わった。
大正6年から12年にかけて、各百貨店は床面積を増やし、施設や設備の豪華な近代的な洋風の高層建築物を競って建て高級なイメ−ジを作りあげていった。これらの百貨店は、呉服を中心に高級品や贅沢品を扱い、知識層である上流・中流階級を顧客としていた。
一方、昭和4年、わが国初のタ−ミナル・デパ−トとして梅田駅に誕生した電鉄直営の阪急は、“どこよりも良い品をどこよりも安く”を
モットーにして食堂中心の大衆向けの百貨店をめざした。当初は高級呉服などは扱わず、日用雑貨や食料品を中心に扱い、顧客は郊外に住む通勤客や沿線居住者であった。次いで昭和7年、南海電鉄の難波駅に2番目のターミナル・デパートとして高島屋南海店が開店、昭和11年には実用的な品揃えと良品廉売主義の大軌(近鉄)が上本町駅に、翌12年には阿倍野橋に大鉄(近鉄)が相次いで開業した。
大正10年から昭和のはじめにかけて、高島屋(長堀橋)、松坂屋(日本橋筋)、三越(高麗橋)、白木屋(昭和7年大阪より撤退)が並び、市電の幹線が走る堺筋は、“百貨店通り”とも言われれ、心斎橋のような古い商店街に代わって大阪のメインストリートになった。
しかし、大正13年、大阪市は、難波〜梅田間4kmの御堂筋を幅員43mに拡張することを発表(昭和12年完成)、大阪のメインストリートは堺筋から御堂筋に変わることが明白になった。
昭和10年、難波〜梅田間の地下鉄が開通し、高島屋、大丸、そごう、阪急が地下鉄一本で結ばれ、百貨店間の競争は一層激化していった。
昭和初年の恐慌期以降は、呉服店から出発した百貨店も大衆化を進めていった。どの百貨店も大衆消費者を相手にするようになって、各百貨店の個性は失われてゆき、呉服店系と電鉄系の大きな相違はなくなっていった。
日中戦争が始まると、百貨店に対する様々な経済統制が行われ、昭和17年5月、百貨店整備要綱が発表され、百貨店の営業は規制された。そして百貨店の売り場は軍需産業へ供出されてゆき、百貨店自体が軍需工場になった。
戦後、戦災を免れた百貨店は占領軍に接収されたりしたため、大阪の百貨店が戦前の規模に達したのは昭和28年になってからである。
日本の百貨店は、欧米の百貨店のように多種類商品を販売する大規模な小売店であるだけではなく、屋上遊園地、美術館、劇場などの文化施設をもって多種多様な催し物を開催し、都市文化を育てるうえで大きな役割も果たし、大衆に夢も与えてきた。
この小展示では、現在大阪にある主な百貨店の創業の頃から終戦後までの歩みを社史を通して見てみたい。
[1]呉服店系列の百貨店
§ 三越
『株式会社三越85年の記録』 1990年刊 673.8ー36N
延宝元年(1673) |
伊勢・松阪の三井高利、江戸本町に呉服店開店 |
元禄 4年(1691) |
高麗橋1丁目に江戸駿河町越後屋の出店として大阪店を開設 |
天保 8年(1837) |
大塩平八郎の乱により大阪本店襲撃され全焼 |
明治 8年(1875) |
大阪呉服店、規模を縮小し高麗橋3丁目に移転 |
明治26年(1893) |
越後屋を合名会社「三井呉服店」に改組 |
明治27年(1894) |
大阪支店、高麗橋2丁目堺筋角に復帰 |
明治29年(1896) |
大福帳から洋式帳簿に改める |
明治32年(1899) |
わが国初の絵看板を新橋、上野、梅田駅待合所に掲出 |
明治33年(1900) |
初めて女子を採用.東京本店すべて陳列場にし、座売り廃止 |
明治37年(1904) |
日比翁助らにより「株式会社三越呉服店」設立 |
明治38年(1905) |
全国主要新聞紙上等に“デパートメント・ストア宣言”掲載 |
明治43年(1910) |
PR誌「大阪の三越」創刊 |
明治44年(1911) |
大阪三越、木造30mの飾り窓付き2階建洋風新館完成 |
明治45年(1912) |
大阪三越にも少年音楽隊新設 |
大正 3年(1914) |
大阪三越で第6回児童博覧会開催 |
大正 6年(1917) |
大阪三越新築落成 当時大阪最大のルネッサンス式建物 |
大正 8年(1919) |
大阪三越「さかえの日」盛況 日用雑貨、実用呉服超特価販売 |
大正 9年(1920) |
大阪三越東館竣工 |
大正15年(1921) |
大阪三越下足預かりを廃止(西日本初) |
昭和 3年(1928) |
「株式会社三越」に商号改名 |
昭和12年(1937) |
大阪三越改修工事完成 新式冷房装置新設 |
§ 大丸
『大丸二百五拾年史』 1967年刊 542.3ー359
♯
享保 2年(1717) |
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下村彦右衛門兼雄(正啓)京都伏見京町に呉服店を開く(大丸創業) |
享保11年(1726) |
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大阪心斎橋筋に八文字屋と共同出資の大阪店「松屋」開店 |
享保13年(1728) |
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名古屋店を開き、呉服卸商を営み、初めて「大丸屋」を称する |
寛延 4年(1751) |
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大阪堂島に北店を開く |
明治40年(1907) |
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株式合資会社「大丸呉服店」創立 月刊誌「衣裳」創刊 |
明治41年(1910) |
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大阪店で小間物も扱う |
明治45年(1912) |
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通天閣西側に大丸出張所設ける |
大正 2年(1913) |
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木造洋館の大阪店新館落成 化粧品、雑貨の陳列販売始める女子販売員、燕尾服の案内ボーイ置く |
大正 3年(1915) |
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本店を大阪に移す 心斎橋筋に大阪で始めてのショーウインド−を設ける |
大正 4年(1916) |
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大福帳から簿記式に改める |
大正 9年(1920) |
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大阪店全焼.「株式会社大丸呉服店」創立 |
大正11年(1922) |
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大阪本店清水町側新館 鉄筋コンクリート6階建竣工、デパート業界初の |
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週休制実施(月曜定休) |
大正15年(1926) |
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大阪店、履物のままの入店に改める |
昭和 8年(1933) |
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大阪店御堂筋側落成 |
昭和 9年(1934) |
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大阪店全館冷房実施 地下鉄心斎橋駅と地下2階で連絡 |
昭和20年(1945) |
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大阪大空襲で5、6、7階および清水町別館焼失 |
昭和22年(1947) |
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大阪店戦災復旧工事竣工 |
§ 高島屋
『高島屋百五十年史』 1982年刊 542.3-725 ♯
天保 2年(1831) |
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飯田新七、京都烏丸で古着木綿商「たかしまや」開店(高島屋創業) |
明治20年(1887) |
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御堂筋本町北に大阪出張仮事務所設置 |
明治31年(1898) |
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丸亀屋呉服店の店舗を譲り受け、「たかしまや飯田新七呉服店」として心斎橋店開店。呉服店として初めてマネキンを用いる |
明治40年(1907) |
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大阪店洋風2階建に改装。陳列式デパート方式、一部座売り |
明治42年(1909) |
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高島屋飯田合名会社設立 |
明治44年(1911) |
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大阪店美術部開設 |
大正8年(1919) |
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大阪店全焼、再建.「株式会社高島屋呉服店」設立 |
大正11年(1922) |
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大阪心斎橋店閉鎖.大阪長堀店新築開店 |
大正15年(1926) |
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大阪店10銭均一売場開設.「百華新聞」大阪店で発刊 |
昭和 2年(1927) |
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大阪店下足預かり廃止 |
昭和 5年(1930) |
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「株式会社高島屋」と商号変更.大阪南海店一部開店 |
昭和 7年(1932) |
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大阪南海店全館開店.百貨店初の冷暖房換気装置設置 |
昭和12年(1937) |
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御堂筋拡幅工事完成.第1回蚤の市、呉味の市開催 |
昭和13年(1938) |
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大阪南海店東洋一の大食堂街開設 |
昭和14年(1939) |
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大阪長堀店閉鎖、南海店に統合 |
昭和20年(1945) |
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大阪店の総供出全店の66%. 戦災により大食堂街全焼 |
昭和25年(1950) |
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大阪店新館ニューブロードフロア完成(大食堂街跡を改装) |
§ そごう
『株式会社そごう社史』 1969年刊 542.3ー403
#
天保 元年(1830) |
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十合伊兵衛、大坂南組上難波北之町の坐摩神社の南隣に古手屋(古着屋)「大和屋(やまとや)」開業(そごう創業) |
明治10年(1877) |
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呉服商として心斎橋筋1丁目鰻谷角に進出 |
明治27年(1894) |
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心斎橋店現在地に移転、十合呉服店として出発 |
明治30年(1897) |
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合名会社設立 これに反対する大番頭以下多数退職 |
明治41年(1908) |
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大阪の呉服店として初めての土蔵造りの店舗完成 |
大正 8年(1919) |
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大阪本店増築開店、高層店舗 「株式会社十合百貨店設立」 |
昭和 3年(1928) |
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大阪本店下足預かり廃止 |
昭和10年(1935) |
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村野藤吾設計の大阪本店、新店舗開店 |
昭和19年(1944) |
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余剰売場を軍用プロペラ工場に転用、また家財保護預り所と |
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して市民に提供 |
昭和20年(1945) |
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大空襲にほとんど無傷で残る |
昭和21年(1946) |
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進駐軍からの全店舗接収命令。PX、慰安施設として使用される |
昭和27年(1952) |
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6年間にわたる接収の後、返還される。大阪店改修し再開 |
§ 松坂屋
『松坂屋七十年史』 1981年刊 542.3-721
#
慶長16年(1611) |
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織田信長に仕えた元武士、伊藤祐道が名古屋で呉服小間物 |
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問屋を開業.(松坂屋の創業) |
延享 2年(1745) |
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京都姉小路に仕入店を開設 |
明治 8年(1875) |
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大阪新町に「えびす屋いとう呉服店」開業 |
明治42年(1909) |
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「えびす屋いとう呉服店」を閉鎖 |
明治43年(1910) |
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「株式会社いとう呉服店」創立 |
大正12年(1923) |
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「松阪屋大阪店」として復活再開 (日本橋筋3丁目) |
昭和 9年(1934) |
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大阪店増築の第一期工事完成 |
昭和12年(1937) |
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第二期工事完成、東洋一の規模の店舗となる。 |
昭和16年(1942) |
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大阪店で不用品交換即売会大成功 |
昭和20年(1945) |
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大阪店天王寺附属舎焼く |
昭和41年(1966) |
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大阪日本橋店営業終了、大阪店天満橋移転開店 |
[2]電鉄系列の百貨店
§ 阪急
『株式会社阪急百貨店25年史』 1976年刊 542.3-589
#
大正 9年(1920) |
|
阪急梅田駅構内(阪急ビル1階)を白木屋に賃貸。白木屋梅田出張店として |
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食料品、日用雑貨の販売開始 同ビル2階に乗客むけ大衆食堂「阪急食堂」を開設 |
大正14年(1925) |
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賃貸契約満了に伴い白木屋梅田出張店閉鎖。阪急ビル2、3階に阪急電鉄直営の |
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阪急マ−ケットを開業。 |
昭和 4年(1929) |
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わが国初のタ−ミナル・デパ−ト「阪急百貨店」開業、食堂中心の経営.最上階に |
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豪華な食堂を置き、清潔で安くて美味しいをモット−にする。ライスカレ− |
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やランチが名物になる。 |
昭和 8年(1933) |
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理髪室を西館に開設 |
昭和 9年(1934) |
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直営製菓工場、百貨店アイスクリ−ム工場竣工.阪急自社ブランドや自家製方式 |
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の開発。 無料の阪急健康相談所開設 |
昭和10年(1935) |
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地下売り場と地下鉄梅田駅連絡通路開通。 阪急結婚相談所西館に開設。 |
昭和20年(1945) |
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京阪デパ−ト建物買収 |
昭和21年(1946) |
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天満橋マ−ケット営業開始、マ−ケット内食堂営業開始 |
昭和22年(1947) |
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株式会社阪急百貨店創立、阪急電鉄から独立天満橋マーケットを阪急天満橋支店 |
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として開業。 |
§ 近鉄
『近鉄百貨店40年のあゆみ』 1977年刊 542.3-621#
大正15年(1926)
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大阪電気軌道(株)が上本町の大軌ビル内に直営食堂開業 |
昭和 9年(1934) |
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「株式会社大鉄百貨店」創立 |
昭和11年(1936) |
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大軌百貨店全館開店(上本町) |
昭和12年(1937) |
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大鉄百貨店全館開館(阿倍野橋) |
昭和16年(1941) |
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大軌、参宮急行電鉄を合併、関西急行鉄道(株)に社名変更 |
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大軌百貨店は関急百貨店に変わる。 |
昭和19年(1944) |
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関急、大鉄百貨店を合併。大鉄百貨店は関急百貨店阿倍野店、関急百貨店 |
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は関急百貨店上本町店として再発足。その後関急と南海電気鉄道(株)が |
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合併して近畿日本鉄道(株)を設立、近畿日本鉄道上本町百貨店と近畿日本 |
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鉄道阿倍野百貨店に名称変更。 |
昭和20年(1945) |
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空襲により阿倍野店罹災 |
昭和22年(1947) |
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旧南海から継承した事業を南海電気鉄道(株)へ譲渡 |
昭和23年(1948) |
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「近鉄百貨店上本町店」「近鉄百貨店阿倍野店」と店名を変更。 |
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阿倍野店戦災復旧工事竣工 |
昭和47年(1972) |
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「株式会社近鉄百貨店」として分離独立 |
§ 阪神
『阪神電気鉄道八十年史』 1985年刊
553-955#
昭和 4年(1929) |
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大阪市に百貨店用地の分譲を求める(直営しない方針) |
昭和 5年(1930) |
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高島屋との間に計画中の大阪駅前ビルの賃貸予約の覚書交換 |
昭和12年(1937) |
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「株式会社阪神百貨店」発足。阪急の反対激しくなる |
昭和13年(1938) |
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昭和5年の高島屋との覚書を白紙に戻す |
昭和16年(1941) |
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梅田阪神ビルディング第1期工事竣工、第一地階の一部に売場を設ける |
昭和26年(1948) |
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阪神ビル北側地下道の両側に「全国名菓名物街」設置「阪神マート」を |
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「阪神百貨店」に改称。 |
昭和32年(1957) |
|
「株式会社阪神百貨店」設立。地下2階から地上4階までの新館開館、 |
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阪神梅田駅ホームから直接入店できる大玄関設ける。委託部門優先の |
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政策。専門店の寄合形式による関連商品売り場構成を店の特色とする。 |
昭和38年(1963) |
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大阪神ビル竣工、売場面積増加。 |
§ 京阪
『京阪七十年のあゆみ』 京阪電気鉄道 1980年
553ー15#
『過去が咲いている今 京阪この十年』 京阪電気鉄道 1990年刊 686-5N
昭和 7年(1932) |
|
「京阪デパ−ト株式会社」設立 |
昭和 8年(1933) |
|
京阪電鉄、白木屋、他の発起人の共同出資で天満橋に営業所を開店 |
昭和20年(1945) |
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阪急に京阪デパート建物買収される。 |
昭和21年(1946) |
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阪急が天満橋マーケットとして営業開始。 |
昭和22年(1947) |
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阪急天満橋支店として開業。 |
昭和24年(1949) |
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京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分離独立し、阪急天満橋支店の |
|
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建物が京阪電鉄の所有となる。 |
昭和36年(1961) |
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阪急百貨店は天満橋支店を閉鎖、京阪に返還。 |
昭和60年(1985) |
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京阪守口市駅前に大規模ターミナルデパート「株式会社京阪百貨店」開店。 |
<社史以外の展示資料>
1.『大阪松坂屋増築記念絵はがき』
[昭12] |
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542.3-845 # |
2.『大阪名所絵葉書』 [出版地不明][出版年不明] 明治末〜昭和
104枚 |
|
378-1085# |
3.『大阪絵葉書帖』 [出版地不明][出版年不明] 174枚 |
|
ぬ-180 |
4.『写真集なにわ今昔』 毎日新聞社 1983 |
|
378-921 # |
和洋折衷の土蔵造りの十合百貨店(明治41年完成) |
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5.『浪速百景』 一養斎芳滝[ほか画] 立風書房
1976 |
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ぬ-178# |
第五十六図 「三井呉服店」 一珠斎国員画 |
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|
6.『玉屑帖』 [出版地不明][出版年不明] [1923〜24頃]
50枚 |
|
ぬ-192# |
7.『大阪市産業大観』 〔出版者不明〕
1929 |
|
へ-544# |
8.『大丸心斎橋店−建築美にみる歴史』
1989 |
|
526.6-7N |
昭和8年、W.M.ヴォーリスの手がけたアールデコ様式の建築。 |
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12年に改造されるまで中央に6階までの巨大な吹き抜けがあった. |
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9.『大阪電車大丸呉服店案内双六』 1909 |
|
378-349# |
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