第19回大阪資料・古典籍室1小展示 平成10年5月23日〜6月28日 |
義経=ジンギスカン伝説を追う |
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今回の主役は源義経です。 義経は衣川で奥州藤原氏の襲撃を受けて自害したことが史実になっていますが、実は生きのびて東北・北海道から中国大陸に渡ってジンギスカンになったという伝説があることは衆知のことかと思います。 しかし、この「義経=ジンギスカン伝説」が比較的近年にうまれたものであることを知る人は意外に少ないのではないでしょうか。 最初に唱えたのは江戸後期に来日したあのシ−ボルトで、大正の終わり頃に一般的なものとなりました。 義経=ジンギスカン伝説が受け入れられた背景には実は中国大陸の利権を狙う当時の日本の社会的な風潮があったとされています。つまり、大陸に渡って開拓を進める日本人を鼓舞するために、かつてユ−ラシアを支配した偉大な先祖(つまりジンギスカンとなった義経のことです)がいたことにしようとしたのです。 この小展示では室町から江戸時代までに義経伝説がどのように形成され、さらにジンギスカンとなるまでを当館の所蔵する古典籍を中心に跡づけていきたいと考えています。
I. 北海道に逃れた義経『吾妻鑑』によれば、文治5年閏4月30日に源義経は奥州衣川において藤原泰衡の軍に囲まれて家族とともに自害し、同年の6月13日に義経の首実検が行われたことになっています。 けれども、この首実検は義経の死後40日もたって行われています。このことが義経伝説の生まれる素地となりました。つまり、夏でもあり首が腐っていないはずはなく、義経かどうかは確認できない、というのです。 また、衣川から鎌倉まで40日もかかるはずはなく、これは義経を逃すための時間かせぎ、カムフラ−ジュだったというのです。 室町時代に創られたお伽草紙では義経が北方の各地を冒険するお話がつくられていますが、この時点ではまだ義経が奥州を逃れたということにはなっていません。 しかし、江戸時代の1644年に徳川家光が編纂を命じた『本朝通鑑』続編に文献上始めて義経が死んでいなかったという記述(「俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種」)があらわれます。 これ以降は義経が北海道に逃れ、彼の地で神として祭られているという記述が多くなります。
II. 中国大陸に行った義経義経が北海道に渡ったとする伝説が生まれた背景には北東アジアを南下するロシア帝国の脅威がありました。北海道に住むアイヌの人たちの神(オキクルミ)と義経が同一であることを彼らに強制させることで、北海道が日本の「領土」であることを主張する理由づけができたのです(菊地勇夫「義経『蝦夷征伐』物語の生誕と機能」『史苑』42巻1〜2号:1982年)。 さて、『鎌倉実記』(1717年)の中で、「金史別本」という本があってそこには義経が中国大陸に渡った、と書かれていると紹介されています。このことは当時かなり衝撃的だったようで、新井白石も義経の中国大陸行きに大きな関心を示しています。 1783年の『国学忘貝』に、「図書集成」には「朕姓源義経之裔其先出清和故号国清トアリ清ト号スルハ清和帝ノ清ナリ」と書かれていることを紹介しています。つまり、中国の清王朝の先祖は源義経で、清という国号は清和源氏からとったというのです。 後になって「金史別本」も「図書集成」も偽書であることがわかるのですが、江戸時代の中頃になって、義経は北海道を抜けて中国大陸に足跡を残した、という伝説が生まれてきます。けれども、まだ義経はジンギスカンになっていません。
III. ジンギスカンになった義経シ−ボルトは『日本』に彼の友人であった吉雄忠次郎が義経はジンギスカンになったことを確固として信じていると記しています。そしてこの「世界的事件」に歴史家が注目するようにとも書いています。こうして、義経がジンギスカンになったということが世間に広まりました。 最終的にこの伝説を決定づけたのが小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』でした。 松山巖氏はこの本が出版された後の読者の声をまとめて、大陸に向かう日本人を鼓舞するのに大いに役立ったと指摘しています(「英雄生存伝説と日本起源論異説」『ユリイカ』1989年9月号)。
参考文献
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