秋の夜長、お酒が美味しくなる季節になりました。このところ地ビールや赤ワインのブームもあって、日本酒の人気がかげりがちですが、日増しに寒さが身にこたえるこの季節になると、やはりお酒(日本酒)がほしくなる左党の方も多いのではないでしょうか。
日本酒もいわゆる地酒が全国各地で造られ、灘や伏見の全国ブランドの酒以上に人気のある銘酒も出回っているようです。大阪の地酒も評判のいいものがいくつかあります。
ところで、大坂が近世、特に江戸前期・元禄のころ全国有数の酒の生産地だったことをご存知でしょうか。今回の小展示はその頃の盛況ぶりを示す資料を展示してみました。
○大坂の酒の歴史
大坂の地域で最初に酒造りを始めたのは天野山金剛寺(河内長野市)と云われており室町時代の公家・武家・僧侶などの支配階級に「天野酒」としてもてはやされた。
豊臣秀吉もこの酒を深く嗜んだと伝えられている。この天野酒は江戸時代の中頃には造られなくなっていたが、近年ある醸造家が復活させ、大阪を代表する銘酒となっている。
室町時代のころは京都・奈良以外の酒を、京の公家たちは田舎酒といって、格下に扱っていた。
その田舎酒から大坂で伸びてきたのが、富田(高槻市)の酒や池田の酒である。
元禄8年(1695年)小野(平野の説もあり)必大が著述した『本朝食鑑』には、和州南都(奈良)の酒(諸白酒=白米と白麹とをもって仕込んだ酒)が諸国の銘酒中の第一で、伊丹・池田・富田など摂津の酒がこれについでいると記述されている。
江戸時代になり、天下は太平に治まり、大浪速の経済的、政治的地位もがっちり決まってくると、嗜好の変化や江戸積輸送の便宜などとも相まって池田、伊丹がその全盛期に入る。
寛政10年(1718年)に浪速の木村兼葭堂孔恭が著した『日本山海名産図会』には、伊丹の酒造りの工程が図に描かれている。この伊丹の酒は「伊丹諸白」として池田の酒とともに江戸積酒として発展し、江戸で好評を博した。
○富田の酒
富田は寺内町としても知られた町であり、元禄14年(1701年)刊行の『摂陽群談』には「島上郡富田村に造之、所々の市店に出せり、香味勝て宜し」と記されて「富田酒」として近世初期より名を知られ、寛政10年(1798年)刊行の『摂津名所図会』にも「本照寺の隣地清水氏の家にありて清澄にして寒暑に増減なし、此家酒匠を業とし、吉例として毎歳糟漬物を江府へ捧げ献る」とあり、この清水家は屋号を紅屋といい、近世初頭より酒造業を営んでおり、延宝6年(1678年)改めの酒造株は富田村でもとびぬけて2,000石の株高を所持していた。しかし文化・文政期には清水株は伊丹へ貸出され、天保期になって灘の酒造家のもとへ分株された。紅屋の名はいまも紅屋池にその名をとどめている。
○池田の酒
北摂に位置する池田は、地方豪族による政治支配体制から代官制のもとに、畿内先進地としての在郷町を形成し、この地に産業としての酒造業が始まるのは、室町末期から安土桃山時代のころではないかといわれ、前掲の『摂陽群談』には、「豊島郡池田村に造之、神崎の川船に積しめ、諸国の市店に運送す、猪名川の流を汲で、山水の清く澄を以て造に因って、香味勝て、如も強くして軽し、深く酒を好者求之、世俗之を辛口と云ヘり」とあり、また同じく『摂津名所図会』にも「旧名呉服里(くれはのさと)と云ひ、豊嶋都会の地にして交易の商人多し、これより北の方の山家より所々の産物を運び出て、朝の市・暮の市とて商家の賑ひ、特には酒造りの家多くあり」と述べられている。
酒造業が池田の地に発達し、元禄10年(1697年)には酒造家数38戸を数え、田舎酒群から近世的酒造業に脱して銘醸地となった。その原因は、幕藩体制の初期より「酒造御朱印」(酒造免許権)が池田に下付されたことのほか、技術的には良質な猪名川の伏流水という優れた醸造用水と、山間部の良質な酒米を容易に得られたこと、それに猪名川の舟運が利用でき、江戸積みに有利であったことによる。
池田酒の始祖といわれる満願寺屋九郎右衛門の政治的手腕により、徳川家にくいこみ江戸幕府の保護をかちとり、徳川の天下統一とともに急速に発展をとげ、一時期は伊丹と並んで江戸を完全におさえてしまうまでになるが、安永5年(1776年)に満願寺屋の手中にあった「御朱印」が取り上げられ、満願寺屋の没落とともに池田の酒造業も急速に衰え、「灘の酒」にその地位を譲ることになる。
○下り酒
将軍の城下町として繁栄した江戸は、一大消費地であった。元禄10年、江戸入荷の酒は64万樽に及んだといわれているが、その主産地は大坂・池田・富田・鴻池・伊丹・西宮などであった。
慶長の初め、鴻池の初代が2斗樽に酒をつめ、二つを一荷としてわらじ数足を樽の上にのせて、自ら荷って江戸へ下り、大名屋敷で売ったという伝説的成功談をに始まり、やがて四斗樽二個を馬の背につけて送り、さらに大量輸送のきく菱垣廻船・樽廻船による海上航路となった。
上方の酒が菱垣廻船によって最初に江戸に廻送されたのは、元和元年(1619年)であった。菱垣の名は積荷の顛落を防ぐため、舷側に竹で菱形の垣を取り付けたことことからきている。
菱垣廻船には酒のほかに木綿・綿・油・酢・醤油などの日用品を積み込んで廻送していたが、正保期(1644-47年)
は酒荷だけの積切りで廻送する樽廻船があらわれた。
両廻船はたがいに激しい競争をくりかえしていたが、菱垣廻船が600〜700石積以上の大船であったのに対し、樽廻船は200〜400石積の小型で運賃が安く、船足も早かったので小早(こばや)といって喜ばれ、しだいに菱垣廻船を圧倒する勢いを示した。
この樽廻船も寛文年間(1661-72年)には酒を主としながら酢・醤油のほか塗物・紙・木綿・金物・畳表などの荒物を積み合わせて江戸に廻送していた。享保9年(1724年)〜15年、大坂より江戸への積酒量は26万〜17万樽の間を上下するという膨大なものであった。
《参考文献》
・『日本酒の歴史』 |
柚木 学著 雄山閣 昭和50年 |
〈774-7833〉 |
・『大阪の生産と交通』(毎日放送文化双書4) |
小林 茂、脇田 修共著 毎日放送 昭和48年
|
〈033- 143〉 |
・『近世大坂の経済と文化』 |
脇田 修著 人文書院 平成6年 |
〈216.3-257N〉 |
・『大阪府史』 |
第5巻近世編I 大阪府 昭和60年 |
〈328- 747〉 |
・『大阪府史』 |
第5巻近世編II 大阪府 昭和62年 |
〈328- 747〉 |
・『池田市史』 |
第2巻各説編 池田市 昭和35年 |
〈328- 313〉 |
《展示資料》
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・『河内名所図会』 享和元年(1801年) 〈378-
632〉
「天野山金剛寺」
・『五畿内産物図会』 河内之部 文化10年(1813年)
〈802- 4〉
「天野酒の図」
・『本朝食鑑』 元禄8年(1695年) 〈663-2931〉
「穀の部17 酒」
・『摂陽群談』 元禄14年(1701年) 〈378-42〉
「富田酒」「池田酒」
・『摂津名所図会』 寛政8年(1796年) 〈378-
634〉
「清水(富田酒の産地)」「池田(池田酒の産地)」
・『日本山海名産図会』 巻之1 寛政11年(1799年) 〈802-14〉
「酒造りの図」
・『池田酒史』 大正8年 〈328-
389〉
「満願寺屋の舊趾」「元禄十年池田酒醸造高」
「各郷江戸積下り酒の市価」
・『大阪の酒米』 昭和39年 〈812-1609〉
「元禄十年池田地図」「明治五年池田地図」
・『歴史の息づく町なみ』 昭和50年 〈328-
611〉
「池田の酒蔵」
・『ふるさとの風土−高槻』 昭和52年 〈378-
723〉
「富田の酒蔵」
・『大坂(江戸時代図誌3)』 〈325-
177〉
「菱垣新編綿番船川口出航之図」
・『大阪各種見立番付』 〈027-10〉
「天保改 江戸積銘酒大寄 大新板」 天保11年(1840年) |
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