江戸から明治へと世の中が大きく変化するとともに、新しい状況を伝えるための手段として新聞が次々と創刊されます。
日本の新聞界をリ−ドしてきた「朝日」と「毎日」も、明治期大阪で生まれました。
明治前期に大阪で発刊された主な新聞を追ってみます。
大阪での新聞事業の始まり
慶応4年(1868) は戊辰戦争で年があけたが、新政府も佐幕派も、世論を有利に操作する道具として、たがいに新聞発行を奨励した。大阪でも新聞が相次いで発刊されたが、どれも長続きはしなかった。これらは木版刷りの半紙をとじた冊子型で、刊行日も少なく実体は雑誌に近いものだった。一般大衆はまだ新聞そのものを知らない人が大半であった。
『内外新聞』 |
慶応4年(1868)閏4月〜明治元年(1868)9月廃刊
浪華知新館(河内屋忠七ら三肆) 週刊
大阪府知事後藤象二郎らの勧めにより、大阪の三肆が発行した新政府派の新聞で会津落城を報じた17号で廃刊した。
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『各国新聞紙』 |
慶応4年(1868) 閏4月創刊 同年同月第2集で廃刊
イギリス人ウィセヒ編 同ハルトリ−翻訳・出版
在阪の英国商人が、西洋事情と洋品雑貨の知識普及のために出した新聞で外国の新聞からの翻訳が主な内容であった。
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『浮世風聞』 |
慶応4年(1868) 5月 1号のみ刊行
北陽山人・一荷堂半水編
内容は市井の事件・世間のうわさ話などを集めたものであった。
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『大阪日報(浪華要報)』 |
明治4年(1871)10月〜同12月廃刊
大阪活版所
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『大阪新聞』 |
明治5年(1872)3月〜明治8年(1875)4月廃刊
大阪書籍会社 月2〜3回刊 のち隔日刊
大阪府の援助で出した半官半民の新聞で、官衙町村役場等で講読された。
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本格的な日刊紙の発刊
近代様式の硬軟2紙の日刊新聞が発行される。
その後、明治10年西南戦争が起こり、その戦況を伝える新聞が飛ぶように売れ、大阪人も新聞の価値を知るようになる。
『浪花新聞』 |
明治8年(1875)12月〜明治10年(1877)11月廃刊 浪花新聞社 主筆宇田川文海
大衆層を対象とする、ふり仮名付き口語文の小新聞。街頭で読み売り(呼び売り)を行い、人気を博す。
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『大阪日報』 |
明治9年(1876)2月〜明治15年(1882)1月休刊 就将社のち大阪日報社 社主西川甫 社長平野万里
大阪裁判所の判事グル−プが発起、推進した政論中心の大新聞で社説入りでふりがなはなし。
これが紆余曲折を経て後に大阪毎日新聞となる。
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錦絵新聞の流行
これは新聞というよりも、新聞から題材を取った錦絵というべきもので、大衆娯楽の一つとして流行する。最盛期は、明治8年(1875)から9年(1876)。
ほとんどがB5大の中判で、1枚で1件の話。扱われた題材は市井の事件、いわゆる三面記事となるような話題を、新聞記事をもとにしながら、わかりやすい文体に書き改め、ふりがな付きで印刷した。
小新聞の発行が盛んになると、錦絵新聞の読者は小新聞へと吸収されていった。
『大阪錦画新聞』 |
『大阪錦絵新聞』 |
『大阪錦画新話』 |
『大阪新聞錦画』 |
『大阪錦画日々新聞紙』 |
『新聞図会』 |
『錦画百事新聞』 |
など |
新聞競争時代
東京よりかなりおくれたが、大阪も新聞競争時代を迎える。
東京紙の士族的、インテリ的なのにくらべて庶民的で、後に全国を制覇する大阪の新聞の、大衆紙への発展の芽がみられる。
『大阪新報』以外は小新聞。
『浪花実生新聞』 |
明治10年(1877)7月〜11月廃刊 大阪実生社
婦人や少女を相手とするいたって読みやすいものであった。
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『大阪新報』 |
明治10年(1877)12月〜明治17年(1884)1月廃刊 大阪新報社
『大阪日報』の内紛で分離した一派が起こした改進党系の大新聞。
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『大阪新聞』 |
明治10年(1877)8月〜明治13年(1880)4月廃刊 大阪新聞社 宇田川文海編集
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『大坂でっち新聞』 |
明治11年(1878)12月〜『大阪絵入新聞』と改題 大阪丁稚新聞社
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『大阪絵入新聞』 |
明治12年(1879)4月〜明治13年(1880)12月廃刊 大阪丁稚新聞社
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『朝日新聞』 |
明治12年(1879)1月〜明治22年(1889)1月『大阪朝日新聞』と改題 持主村山龍平 資本主木村平八 編集主幹津田貞で創刊
小新聞として出発したが、絵入りの続き物、小説などで大衆の興味をひきながら、ふりがなつきの平易な文章の論説ものせ、小新聞にして大新聞を兼ねる独特の紙面が、庶民に受け入れられ、大阪のトップ紙になっていく。
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政党新聞の時代
民権運動の最高潮期14年(1881)から15年にかけて政党機関紙時代に入る。
しかし、政府の民権派に対する弾圧は厳しく、相次ぐ発行停止処分をうけ、衰退していく。
『日本立憲政党新聞』 |
明治15年(1882)2月〜明治18年(1885)9月『大阪日報』と改題 社長中島信行 主幹古澤滋
日本立憲政党の機関紙。 日本最初の政党機関紙。
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『大阪毎朝新聞』 |
明治14年(1881)10月〜明治15年(1882)12月第35号で禁止
明治16年(1883)8月再興〜明治18年(1885)5月廃刊 大阪毎朝新聞社
『大阪新報』は改進党の機関紙になったが、政府の弾圧に備えて身代わり用に発刊された。
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『大東日報』 |
明治15年(1882)4月〜明治18年(1885)5月『内外新報』と改題
明治20年(1887)4月廃刊 大東日報社 主筆原敬
政府側、官憲派の帝政党の機関紙
御用紙のレッテルをはられ人気がわかず、不振のままに終わる。
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『此花新聞』 |
明治15年(1882)1月〜明治18年(1885)10月『日本絵入新聞』と改題〜明治19年(1886)11月廃刊 此花新聞申報社
大新聞と小新聞との間をいく中新聞として、大阪の読者に新しい印象を与える。
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新聞激戦期
国会開設を前にした政治季節、五紙入り乱れての激戦期に入るが、国会開会の前後、兆民も鉄腸も東京に帰り、東雲新聞も関西日報も振るわなくなり、以後は大朝・大毎時代となる。
『東雲新聞』
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明治21年(1888)1月〜明治24年(1891)10月 東雲新聞社 民権派の論客、中江兆民が主筆
豊富なニュ−ス量と小説入りのくだけた紙面で人気を集めた。
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『関西日報』 |
明治22年(1889) 7月〜まもなく廃刊 関西日報社 末広鉄腸が主筆
大同派の機関紙。
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『大坂公論』 |
明治22年(1889)1月〜明治23年(1890)5月廃刊 大阪朝日新聞社 織田純一郎主筆
「朝日新聞」の姉妹紙。
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『大阪毎日新聞』 |
明治21年(1888) 11月〜 大阪毎日新聞社 主筆柴四郎
衰えた『日本立憲政党新聞』が再び『大阪日報』と改称していたのを大阪財界のトップクラスが共同して買い取り、実業界の機関紙として発刊する。
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展示資料
『内外新聞』 |
1〜17号 知新館 慶応4年(1868) <071-4> |
『大阪新聞』 |
50〜66号 大阪新聞社 明治5年(1872)
<071-6> |
『浪花新聞』 |
148〜279号 浪花新聞社 明治9年(1876)
<丙-12> |
『大阪日報』 |
明治9年(1876) 〜明治11年(1878) 就将社
<071-25> |
『諸新聞画帖』 |
「大阪錦画新聞」15号 「大阪錦絵新話」2号
<070-4> |
『確実画解新聞』 |
1〜13号 新惣三郎 明治9年(1876) <071-18> |
『此花新聞』 |
119〜192号 此花新聞申報社 明治15年(1892)
<071-10> |
『復刻東雲新聞』 |
大阪市 1977年 <む-273> |
『幕末明治新聞全集』 |
第3巻「各国新聞紙」 大誠堂 1934年
<070-107> |
『幕末明治新聞全集』 |
第5巻「浮世風聞」 大誠堂 1935年
<070-107> |
『朝日新聞社史』 |
明治編 朝日新聞社 1990年 <070.6-1N>
資料編 朝日新聞社 1995年 <070.6-1N> |
『朝日新聞小史』 |
朝日新聞社 1961年 <070-311> |
『毎日新聞七十年』 |
毎日新聞社 1952年 <070-203> |
『毎日新聞百年史』 |
毎日新聞社 1972年 <070-491> |
参考文献
福良虎雄編『大阪の新聞』 岡島新聞舗 1936年 |
<070-123> |
岡満男『大阪のジャ−ナリズム』 大阪書籍 1987年 |
<070.2-29N> |
土屋礼子『大阪の錦絵新聞』 三元社 1995年 |
<070.2-53N> |
加藤三之雄『大阪の情報文化』(毎日放送文化双書12) 毎日放送
1973年 |
<033-143> |
遠藤章弘編『上方おもしろ草紙』朋興社 1988年 |
<571-1457> |
『新修大阪市史』第5巻 大阪市 1991年 |
<216.3-25N> |
清水博「明治・大正 大阪の新聞」『明治大正図誌 大阪』 筑摩書房 1978年 |
<326-921> |
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