第34回大阪資料・古典籍室1小展示 平成12年4月1日(土)〜5月14日(日) |
明治の読書文化 |
永嶺重敏氏の『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部;1997)によると、明治期に日本人の読書生活は大きく変化したといいます。新聞、雑誌といった新しいメディアの誕生や活版印刷の普及といった諸事情は、それまで「音読」が中心だった日本人の読書という行為を「黙読」へ変化させました。また、貸本屋に代わって図書館という新しい読書空間が誕生したのも日本が近代化した明治以降のことです。 今回の展示では近代を迎えた日本で「読書」がどのように変化していったのか。図書館ができるまでの大阪を中心に明治前期の読書文化について考察していきたいと考えています。
I 音読から黙読へ
●江戸時代の読書『吉原はやり小歌そうまくり』 稀書複製会第 2期刊行書23回 『吉原恋の道引』 稀書複製会第4期刊行書13回
江戸時代は、出版業が発展し、読書人口が大きく拡大した時代で、多くの人びとが小説類や軍書、実録などを楽しむようになりました。この時代、出版業者と読者とを結びつける役割を担ったのは、貸本屋でした。期限を定め、見料をとって本を貸す貸本屋は、江戸中期以降増加していきます。19世紀初期には、大坂に300人の貸本屋がいたと伝えられています。曲亭馬琴、為永春水らは貸本屋を通じて多くの読者を得ました。こうした貸本屋も、明治に入ると、新聞や雑誌が普及する中で衰退していくことになります。 江戸期の貸本屋は、背に大量の本を背負い、得意先を回るという形態が一般的であったようです。図は、吉原を回る貸本屋です。
●音読から黙読へ『明治大正図誌』17 図説年表 山口修 編
江戸時代から明治前期までの読書スタイルは、文章を声に出して読んでいく音読が一般的で、家族やグループといった集団で読んでいたという大きな特徴がありました。活版印刷が普及するとともに、ひとりで静かに黙読するというスタイルに変わっていきますが、明治30年代頃までは、ひとりで音読したり、書物を読み聞かせたりといった習慣が残っていました。 図では、牢内で、1人の囚人が、他の囚人に書物を読み聞かせています。
『風俗画報』218号 (東陽堂 1904) 明治前期には、人びとは公共の空間においても、声を出して書物を読んでいました。図書館はそんな中にあって、音読禁止を明確に打ち出した施設でした。やがて公共空間での音読はなくなっていきます。図は、1897(明治30)年に設立された帝国図書館の様子です。
II 新聞・雑誌の誕生
●新しいメディアの誕生『中外新聞』 071−2#
幕末期にオランダからの外国ニュース『和蘭風説書』が廃止され、新聞が献上されることになります。東インド(現インドネシア)のバタビアにあったオランダ総督府の機関紙『ヤバッシェ・クーラント』を翻訳、抄録した『官板バタビア新聞』が日本人の最初に発行した新聞として1862 (文久2)年に誕生しました。さらに 1868 (慶応4)年、国内のオリジナルな情報を掲載する『中外新聞』が発行されるにいたりました。 しかし、発行部数は『官板バタビア新聞』で 100部、『中外新聞』でも1500部程度と推定されていて、新聞が普及したといえる状態ではまだまだありませんでした。
『明治月刊』 大阪府編
『中外新聞』を作った柳川春三(やながわしゅんさん)によって、明治元年に『西洋雑誌』が創刊されました。これが本格的な日本の雑誌の起源といわれています。この頃の新聞と雑誌は確たる区別がなかったようです。 『明治月刊』は大阪府が明治元年に発行した雑誌です。その後、政府の新聞雑誌保護政策により数多くの雑誌が刊行されます。
●書物の変化と読者の変化『印刷文明史』 第4巻 島屋政一 著
文明開化によってさまざまなものが日本に入ってくるようになり、日本の書物のスタイルを変えていきました。それまで木版で印刷していたものが、活版で印刷するようになり、飛躍的に印刷量が増加しました。『印刷文明史』には同じ雑誌の木版、活版の違いが比較できるページがありますが、活版の方が明らかに見やすく多読、流し読みに向くことがわかります。
『風俗画報』 第138号 (東陽堂 1897)
風俗画讃 「木版師と活版師」です。 木版師の狂歌のひとつめに 一方、活版はといえば3番目に、
『文部省年報第10』 (明治15年 2冊)
滋賀縣年報のなかで、管内人民教育有無一覧表として「自己の姓名を書き得る者」「自己の姓名を書き得ざる者」があります。書けない者が男性のうち約9%、女性のうち約50%、全体では約30%となっています。明治15年現在での識字率がまだ低く、読書文化の全体的広がりというまでには、いたっていない姿がうかびあがっています。
●雑誌・新聞の普及と商品化『萬朝報』 (内容:第1号 明治25年11月1日)
発行部数が増加した新聞紙のなかで、商品として差別化をはかっている様子が価格設定などから読みとれます。文章が難しいと旦那ひとりだけ読むことができますが、文章を平易にして旦那のあとも、細君、番頭、小僧、下女、下男と全員が読めるようにして、商品として大衆化を図っています。
[ 博文館広告 ] 『新聞広告美術大系』 明治編 第4巻 出版・趣味娯楽
いままで50ページ前後が多かった雑誌を、『太陽』で大冊子スタイルに変えた(200ページ以上)博文館の明治36年の広告。各雑誌に多様な記事が入っており、こうした雑誌によって読み流す傾向が強くなっていったことがわかります。
『宮武外骨・滑稽新聞』 第伍冊 復刻 (内容:第143号 明治40年7月20日)
「新聞雑誌の愛読者」としてさまざまな雑誌をさまざまな人が読んでいる状況が描かれています。読書文化の普及と書物の大衆化・商品化が定着したことがうかがえます。
III 読書する公共空間
●大阪初の公共図書館『大阪名所独案内』 伴源平 編
大阪書籍館は当館のできる前に大阪にあった図書館で1876(明治9)年に後の愛日小学校と後の渥美小学校に付設して開館しました。
『府立大阪書籍館規則』 大阪府告示第134号
前出の『風俗画報』第218号にもある通り明治に入り導入された図書館では「音読」は一切認められませんでした。
『元府立大阪書籍館資産引継議案』 大阪府
1885(明治18)年に河内で発生した大洪水は大阪府の財政に大きな影響を及ぼしました。書籍館もその例に漏れず、わずかな財政で収支も償えず、1888(明治21)年には廃止の憂き目にあいます。こうして、府内で最初の「公共図書館」は姿を消すことになります。 『元府立大阪書籍館資産引継議案』によれば書籍館の蔵書は当初大阪市に引き継がれることになっていましたが、そのほとんどは府立大阪博物場内書籍縦覧所に移されます。 その他の蔵書は、一部は師範学校、一部は中学校に分配されたということです。
『府立大阪博物場案内図』 (連鈎堂 1903)
『元府立大阪書籍館資産引継議案』では廃止される書籍館の蔵書は次のようになっていました。 和書 14163冊 589折 364枚 軸144点 これらの多くを引き継いだのが府立大阪博物場でした。案内図をみると正面玄関を入って美術館を越えた後方に「書籍閲覧所」が見えます。
●中之島図書館の誕生[ 中之島図書館全容 ] 『大阪府立図書館アルバム』から
1904(明治37)年3月に大阪図書館が開館しました。現在の大阪府立中之島図書館で、ここに読書する公共空間が本格的に誕生することになります。 この時には、まだ左右両翼はなく、二階と三階の北側の部屋が閲覧室となっていました。
[ 大阪府立図書館規則 ] 『大阪府立図書館一覧』より
近代以降、音読から黙読へと日本の読書スタイルが変化していきますが、明治の30年代まではまだ音読と黙読は混在していたようです。
[ 黙読する人たち ] 『大阪府立図書館アルバム』より
音読を禁止された図書館での読書風景を収めた写真です。永嶺氏はたくさんの人がいるにもかかわらず声を出さずに本を読む光景は「明治の人々にとってきわめて珍奇な新しい体験として映った」と指摘しています。
参考文献 (発行年順)
前田愛『近代読者の成立』有精堂 1973年 (097−341#) 山本武利『近代日本の新聞読者層』叢書現代の社会科学 法政大学出版局 1981年 (070−813#) 川田久長著 『活版印刷史』印刷学会出版部 1981年 (790−85#) 長友千代治『近世貸本屋の研究』東京堂出版 1982年 (099−755#) 弥吉光長『明治時代の出版と人』弥吉光長著作集4巻 日外アソシエーツ 1982年 (090−697#) 山口順子「明治前期の新聞雑誌における視覚的要素について」 『近代日本版画の諸相』 町田市立国際版画美術館編輯 中央公論美術出版 1998年 (732.1−15N) 山本武利『新聞記者の誕生』 新曜社 1990年 (070.2−3N) 日本図書館協会編『近代日本図書館の歩み』地方篇「大阪府」 日本図書館協会 1992年 (010.2−10N) 永嶺重敏『雑誌と読者の近代』日本エディタースクール出版部 1997年 (051−131N) 佐々木隆『メディアと権力』日本の近代14 中央公論新社 1999年 (210.6−238N) |