第53回「おおさか 戦前唱歌あれこれ」へ  第55回「描かれた古墳」へ
第54回大阪資料・古典籍室1小展示
平成15年7月1日(火)〜8月17日(日)


登尾源一の住宅改造会・新興実業社と同時代の雑誌



―大正・昭和前期大阪―


−登尾源一、秋武鴎村、間宮不二雄、池田実たちの雑誌出版−



第54回小展示外観
 大阪は雑誌不毛の地と言われて久しい。大阪の雑誌よ元気を出せとの思いで、大阪の地で大正・昭和前期に発行された雑誌を5誌、関係する資料も含めて展示します。登尾は『住宅研究』、『新興実業』。秋武は『実業之大阪』を出版、共に大阪一の大衆経済雑誌を標榜して刻苦した。間宮は青年図書館員聯盟の書記長として聯盟の活動を支えた。聯盟の機関誌が『圕研究』(「圕」は中国人杜定友が大阪で発明した「図書館」を表す造字)である。池田は『都人』という建築雑誌を出した。
 今回は人間関係図を作りました。川柳作家・岸本水府は登尾と秋武の共通の知人で、小生夢坊は登尾主宰の雑誌『新興実業』の臨時記者だった。人物が織り成す人間関係図もお楽しみ下さい。


人間関係図(PDF 390KB)「第54回小展示 人間関係図」PDFファイル(390KB)

Adobe Readerダウンロード
 ※PDFファイルをご覧になるには、Adobe Readerが必要です。
  Adobe Readerは、右のアイコンをクリックするとダウンロードできます。





登尾源一イメージ登尾源一(のぼりお・げんいち)、火の玉のようなこの男は、第一次世界大戦景気で一儲けしたが身を持ち崩して満州に渡り、帰国するや大正9年京都帝国大学の武田五一の協力を得て大阪で「住宅改造会」を設立し、大阪の住宅改造に立ち上がった。『住宅研究』は住宅改造会の機関誌である。当時大阪には関西の建築家集団日本建築協会があり、その機関誌『関西建築協会雑誌』(第3輯第1号(大正9年1月)から『建築と社会』に誌名変更)が既に発行されていた。協会のドン片岡安に「そんな雑誌はやめておけ」と言われた登尾はその言葉に奮い立つ。登尾のライバルは他にもあった、あめりか屋である。東京で登尾よりも早く住宅改良会を発会させ、機関誌『住宅』を発行、さらに住宅建築会社あめりか屋を経営したのは橋口信助であった。あめりか屋大阪支店は大正7年に北浜に出店していた。そしてもう一人西村伊作(後の文化学院長)が神戸の御影で文化住宅の設計を請け負っていた。登尾の孤軍奮闘は大正13年で終わる。住宅研究は登尾が師と仰いだ武田五一の住宅研究会の手に委ねられた。やがて同人の吉岡安五郎が雑誌『新建築』を発刊するに及んで登尾の住宅研究は終わる。昭和に入って登尾の情熱は、経済雑誌経営に向い『新興実業』誌を刊行する。発刊4年目、東京、台湾に支社を持ち、これからという時、火の玉男登尾源一の寿命は尽きてしまったのである。(生没年:明治28年?〜昭和10年)



秋武鴎村イメージ秋武鴎村(あきたけ・おうそん)の出身地は四国かもしれない。
実業之大阪』を大正14年4月に発行するまでの経歴も定かではない。『実業之大阪』を発行する以前に『時事評論』という雑誌を発行していたらしい。昭和10年4月2日に新大阪ホテルで『実業之大阪』発刊満10周年記念茶話会を開催している。川柳作家・岸本水府(本名:龍郎:当時の肩書きはグリコ(株)支配人広告部長)は『新聞雑誌の経営はなか々至難な事業であるが『実業之大阪』は辛抱強く苦難を嘗め、今日の確乎たる地盤を築き隆々たる業績と勢力を内外に発揮せるは衷心慶賀に堪えません(以下略)』(昭和10年4月号)と祝辞を寄せている。
昭和11年4月20日、職業的向上と親睦を主眼として明石の錦明館で新聞研究倶楽部の発会式を挙げた。この倶楽部に鴎村が主宰する日本新聞調査局も参加している。会員は、新聞界経済界社、新聞興信所、東西日日新聞社、現代新聞批判社、新聞前線社、日本新聞公報社、新聞之世界社、新聞販売研究社、関西新聞評論社、新聞解剖社、新聞事情社。秋武は昭和12年頃、それまでに発行していた『日本新聞調査局報』(昭和7年創刊?)と新たに『婦女世界』を継承発行し、『実業之大阪』を加えた3誌の経営者になった。
鴎村の著書には『百傑集』がある。(生没年不詳)



間宮不二雄イメージ間宮不二雄(まみや・ふじお)は、明治23年に東京の本郷(現:文京区)に生まれた。
13歳で東京日本橋丸善の書籍部に見習生として入社。明治40年、17歳で丸善大阪支店に勤務。その後丸善を退社。大正5年渡米。タイプライター会社で実務に付く。帰国後黒澤商店に入社。大正10年に独立し大阪市北区中野町でタイプライター等を営業のため開業。大正11年12月、大阪市北区木幡町で間宮商店創業、図書館用品の製造・販売をする。昭和2年12月、青年図書館員聯盟結成。昭和3年5月、機関誌『圕研究』創刊。青年図書館員聯盟の書記長として連盟の活動を支えた。昭和20年3月14日の空襲で全財産を失う。その後北海道十勝郡浦幌村(現:浦幌町)に避難。戦後も浦幌町の社会教育活動や図書館学講師、ローマ字普及運動などに携るなど生涯多彩な活動をした。昭和36年に図書館功労者として黄綬褒章を授与された。図書館事業のパイオニアと言われた人。(生没年:明治23年〜昭和45年)

間宮の図書館に対する思念
1.家具、設備、用品の標準化と之等の供給 2.図書館員のトゥールズの完成:分類法・目録規則・件名表目標。間宮は指導し完成に力を貸した。 3.カード寸法の統一、拠るべき分類法及び目録規則の普及を待って新刊図書の印刷カード目録の配給。 4.定期刊行書の索引を編纂し、月刊索引誌の刊行。
(『日本の圕界を如何に発展させるか』より)



池田實イメージ池田 實(いけだ・みのる)は、明治7年に福島県福島市に生まれた。
都人』を発行したのは46歳の頃。『都人』の中では、池田霊峰のペンネームで登場し、時に時事評論、また「住吉造―神社形式の第三形式」(S4.5)、「神明造―神社形式の第四形式」(S4.5)などの神社建築論、「建築士法制定根本的解決に就いて」(S3.1)「建築公聴の提唱」(S2.1)など自由に思想を語り、建築論を展開した。(生没年:明治7年〜昭和25年)






『新興実業』表紙新興実業『新興実業』 大阪 新興実業社
昭和6年(1931)4月(?)創刊 〜 終刊不詳
当館所蔵分 昭和8年(1933)10月〜昭和13年(1938)12月 [雑238]
登尾の『新興実業』は関西唯一の大衆経済雑誌を目標にした。会社、人物紹介もさることながら、昭和初期ミナミのカフェーやキャバレーを紹介したり、ネオン街の噂話が面白い。フランスバーの経営者中田政三を正面から取り上げて人物批評をしたり、中田の著書「カフェーの営業政策と新興建築」(新興カフェー研究協会発行)も広告で大きく取り上げている。この雑誌は昭和初期大阪の風俗資料としても面白い。王子製紙秘書課長渡部道太郎は新興実業誌を『帝国主義的な右傾の流れがあると共に、宗教的なリズムを認める』と書いている。登尾によると昭和9年8月に発行部数5,000部を突破したと紹介している。



『実業之大阪』表紙実業之大阪『実業之大阪』 大阪 実業之大阪社
大正14年(1925)4月 創刊 〜 終刊不詳
当館所蔵分 昭和6年(1931)1月〜昭和12年(1937)10月(欠号あり) [雑416]
秋武の『実業之大阪』は『新興実業』ほどの派手さはない。秋武が毎号巻頭論説を発表するスタイルが貫かれている。論説主幹秋武鴎村である。秋武が事故で入院したときも巻頭の論説は欠かさなかった。ピンチヒッターで妻の秋武不美子が論説を書いた。
『実業之大阪』が関西、愛知、九州地方など新聞社の記事が多いのは、秋武が新聞関係の出身だからかもしれない。中谷青霞が発刊10周年に寄せた句に次のようなものがある。
●春10年(とゝせ)経済都市にこの誌生まれ ●春とゝせ鴎村筆を剣となし



『都人』表紙都人『都人』 大阪 都人社
大正12年(1923)4月 創刊 〜 終刊不詳 
当館所蔵分 大正12年(1923)7月〜昭和6年(1931)12月 [雑505]
池田実の流儀は、『都人』を見る限り趣味人風で粋な感じがある。『都人』の社告で「都人社の目的」があり、その1に、「都市人の趣味向上に基いて生洲改善を計り併せて精神修養に資すること」と書いてある。精神修養とは今なら、精神生活の洗練、充実とでも考えてよいのではないか。これこそが池田の感覚である。『都人』には有名無名の官民の建築関係者が寄稿しているが、彼らは『住宅研究』、『建築と社会』の執筆者と重複する者も多い。
京都にあって「吾々は起つ、因循と模倣の建築図から脱して、感情の豊かな個性をもて、意義ある新建築を創造せんがために(以下略)」と宣言した若き建築家集団「白路社」の平野一男の住宅習作なども掲載されている。



『住宅研究』表紙住宅研究『住宅研究』 大阪 住宅改造会 文化建築社
大正10年(1921)2月 創刊 〜 終刊不詳
当館所蔵分 大正10年(1921)2月〜大正13年(1924)11月(欠号あり)[雑608]
登尾の住宅改造会と『住宅研究』誌は長い間忘れられていた。大正時代の住宅研究史や住宅関係雑誌の歴史にも登場しなかったが、大阪の住宅研究史には必要な雑誌である。当時登尾は東京の日本建築協会に『住宅研究』を寄贈し続けた。我が雑誌こそ真の住宅専門誌との自負からであろう。
 雑誌に登場する書き手は登尾が師と仰ぐ武田五一は無論、松本儀八、関一、片岡安、大屋霊城、生方敏郎、神近市子、高安やす子、柳瀬実次郎、など建築家から歌人まで多彩であり八方に目配りをしている。高安やす子は大阪・土佐堀の医師高安六郎の夫人であり、歌人として有名であった。




宇都宮誠太郎
『住宅研究』大正11年(1922)9月号の表紙図案を描いた「宇都宮誠太郎」。
その宇都宮の著書『新唐草創案集』(内外出版(株)・大正12年(1923)6月刊)[に7―50]
京都帝大の武田五一は宇都宮の恩師。武田は図案家としても有名である。
内外出版は京都の出版社。創業大正9年(1920)4月。学術出版に力を注いだ。京大とも縁があり、西山卯三が編集していた昭和22年(1947)当時の雑誌『建築学研究』(京都帝国大学工学部建築学教室建築学研究会編)の発行所でもあった。


大屋霊城
 大屋は、福岡県生まれ。大正4年(1915)東京帝国大学農科大学農学科卒業。大正6年(1917)大阪府立農学校教諭。大阪府公園設置調査委員会委員、大阪府技師、大阪府史蹟名勝記念物調査会常任委員、大阪府公園新設委員会等数々の委員を歴任。『住宅研究』『建築と社会』等雑誌に執筆多数、著書に『庭園の設計と施行』(大正9年(1920))『庭本位の小住宅』(大正12年(1923))等多数。(生没年:明治23年〜昭和9年)(『造園雑誌』(日本造園学会発行)第1巻第2号参考)


岸本水府:本名:龍郎
 田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なりー川柳作家岸本水府とその時代』(上・下 1998年 中央公論社)によれば「水府のグリコ入社は昭和7年10月、円満退社したのは10年5月」という。登尾、秋武とはどのような縁で知り合ったのだろうか。昭和初期の実業人、出版人には俳句や川柳を愛した人が多かったのかもしれない。


小生夢坊(こいけ・むぼう):本名:第四郎
 小生が登尾と知己の間柄になったのは、曾我廼家五九郎の関西公演がきっかけであろうか。小生は曾我廼家五九郎の劇団に関与していたという。『新興実業』の臨時記者として「漫写人物巡礼」等を連載した。小生は登尾を熱血狭義の人と書いている。漫画家、随筆家、社会評論家が小生の肩書きである。登尾亡き後、新興実業社の顧問になっている。


住宅改造会:会主・登尾源一
 大正9年6月設立。設立当初の住宅改造会賛助員39名。『住宅研究』を発行して会員に無料配布、一般にも販売した。改造会の内容は『住宅研究』創刊号の住宅改造会規則に詳しい。
 《*住宅改造会の出版物には武田五一選、登尾源一編纂『改良住宅間取』大正10年(1921)がある》


住宅改良会:会主・橋口信介→西村辰次郎
『住宅』 住宅改良会が発行した雑誌。
当時を代表する建築家が揃っている。記事の豊富さ、内容とも登尾の『住宅研究』誌をはるかに凌ぐものである。
 大正5年(1916)8月1日創刊。昭和9年(1934)当時は大阪で発行。
当館所蔵分 昭和9年(1934)〜昭和18年(1943)(欠号あり)[雑473]
 昭和9年当時の住宅改良会は大阪にあり、会主は西村辰次郎。


『圕研究』表紙青年図書館員聯盟の機関誌『圕研究』 青年図書館員聯盟
  昭和3年(1930)5月 創刊 〜 昭和18年(1943)12月 終刊
  当館所蔵分 昭和3年(1930)5月 〜 昭和18年(1943)12月[雑451]


宣言文
 分離派建築会の宣言:大正9年(1920)
我々は起つ 過去建築圏より分離し総の建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために 我々は起つ 過去の建築圏内に眠って居る総のものを目覚まさんとために 溺れつつある総のものを救はんがために 我々は起つ。我々の此の理想の実現のためには我々の総のものを愉悦の中に献げ倒るるまで 死にまでを期して 我々一同 右を世界に向かって宣言する。(竹村新太郎著「木挽町逓信省の話し補遺・・創宇社の生まれた頃」『竹村文庫だより』第3号 1989.6から引用)
 創宇社第1会展の宣言:大正12年(1923)
我等は古代人の純情なる創造の心を熱愛し 模倣てふ不純なる風潮に泣き 永遠の母への憧れをもて 退廃と陳腐とにただれたる現建築界の覚醒を期す 我等は生の交響楽――全宇宙に我等の生命 美しき『マッス』を見出すべく専心努力する(竹村新太郎著「木挽町逓信省の話し補遺・・創宇社の生まれた頃」『竹村文庫だより』第3号 1989.6から引用)
 白路社の宣言:昭和2年(1927)
吾々は起つ 因循と模倣の建築図から脱して 感情の豊な個性をもて 意義ある新建築を創造せんがために 吾々は起つ 吾々の創作は 歓喜であり涙である 描かれる作品は血潮であり 生命である 人生の全了として 吾々は起つ(『都人』昭和2年9月号)
 青年図書館員聯盟の宣言:昭和2年
日本近代圕の創始以来既に五十有余年、一般文化の進展につれてわが圕事業も漸次発達の歩を進めたが、殊に最近数年間におけるその発達は目醒ましい飛躍的の歩度を示している。(中略)われらはわれらの時代と日本的特殊の立場とに対する正当なる認識の上に立って、広く理論的実際的方面からの組織的研究を起し、もって圕文化の耐えざる創造発展を期せんとする。(中略)われらの事業に要するものは熱である、根気である、力である。断えず直往邁進して已まざる青年の気魄である。よってわれらはわれらの聯盟を名づけて青年図書館員聯盟と呼ぶ。苟くもわれらと志を同じうするものはその地位と境遇とを問はず、来ってわれらと共にこの画期的事業に参しもってその大成を遂げしめよ。(「青年図書館員聯盟十年略史:1927-1937」青年図書館員聯盟(1937))

曾我廼家五九郎
喜劇役者。徳島県生まれ、本名武智故平。麻生豊の漫画「のんきな父さん」は五九郎をスケッチしたものがモデルという。(生没年:明治9年〜昭和15年)(香川登志緒著『大阪の笑芸人』(晶文社)、『大阪人物事典』清文社)


船場通信高安やす子
高安やす子を特集した『船場通信』11・12合併号
『船場通信』1号〜12号 昭和46年(1971)〜昭和51年(1976)大阪 船場の会 [雑2680]
高安やす子について“関西婦人社交界の明星である”と紹介している。
『婦人宝鑑 大正12年度』 大正12年(1923) 大阪毎日新聞社[023−7]


竹村文庫:竹村新太郎
『竹村文庫だより』は創宇社創立メンバーの1人竹村新太郎の『記録・収集になる、日本の建築運動に関する資料その他の文献を継承、保存し、有効な活用を計ることを目的とする』(竹村文庫会則より)ものである。
竹村の追悼号は『竹村文庫だより』10号 千葉 竹村文庫  平成9年(1997)


和多久志西村伊作
西村伊作は蘆田止水の個人雑誌『和多久志』にも登場している。
当時の西村の売れっ子ぶりが伺える。
『和多久志』大正9年(1920)〜昭和3年(1928)全11冊 大阪 芦田安一 [雑2344]


日本建築協会
『日本建築協会80年史』 日本建築協会
大阪 日本建築協会 平成12年(2000) [520.6−25N]
池田實について詳しい紹介がある。


財界の前線に踊る人々登尾源一
『財界の前線に踊る人々』 大阪 新興実業社 昭和10年(1935) [351−1077]
『新興実業』誌で取り上げた127人の実業人を全員顔写真入りで紹介している。
『住宅と生活の設計』 京都 田中平安堂 藝苑社 大正14年(1925)装丁者は村山知義


日野草城
『新興実業』創刊5周年の祝いの句「朝の茶の かんばしく 春立ちにけり」
登尾源一追悼句 「暖かき 雲の如くに わらひし人」
登尾は草城を評して「日野くんが誰に対しても驕らず、高ぶらずその謹厳な風貌と共に、水のような落付きを見せている態度は実に床しさそのものである」と書いている。


間宮不二雄関係
『図書館と人生』間宮不二雄古希記念会 昭和35年(1960)[090−249]
『間宮不二雄先生喜寿記念図書館学論文集』間宮不二雄先生喜寿記念図書館学論文集刊行会 清和堂書店(発売)昭和43年(1968)[090−361]
 間宮不二雄の伝記『圕と我が生涯』前編・後編
   東京 不二会 昭和46年(1971) [352−6987]
 間宮不二雄、間宮商店が発行した本の一部
   『簡明・対照 新掌中東西年表』改定増補第3版 間宮不二雄考案
   昭和34年(1959) [313−71]
   『日本叢書年表』 垂水延秀編 昭和5年(1930) [015−97]
   『日本十進分類法』 森 清編 昭和4年(1929) [095−9]


吉岡保五郎
『新建築』 大阪 新建築社
大正14年(1925)創刊 〜
当館所蔵分 大正15年(1926)11月〜平成7年(1995)(欠号あり)[雑527]
登尾、武田五一も同人だった「住宅研究会」の吉岡保五郎が編集・発行した。


立田清:柳々堂
柳々堂店主。香川県出身。大正8年、柳々堂に勤務。(生没年:明治39年〜平成2年)
柳々堂は『住宅研究』の売捌書店であった。『住宅研究』は売れなかった、失敗した雑誌でしたと立田氏は述懐した。