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絵葉書で辿る・日高胖の欧米出張旅行
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明治41年(1908)7月27日欧米出張を命じられる。8月9日大阪出発、門司から船に乗り大連に渡り、シベリア鉄道でロンドンに向かった。ロンドン-フランス-スイス-イタリア-スペイン-ギリシャ-トルコ-ハンガリー-ドイツ-イギリス-アメリカを回る約1年に及ぶ出張旅行であった。その旅を絵葉書と地図で辿ってみよう。(発信地の地名は絵葉書のままとした。)
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8月21日[葉書1 ] | 奉天にて。昨夜撫順より到着。
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8月28日付[葉書2 ] | ハルビンを出て4日目、イルクーツクに到着。汽車を乗り換えモスコーへ。
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9月 1日[葉書3 ] | 午後3時。9月3日夕にはモスコーに着くべし。
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9月 2日[葉書4 ] | 午後4時、18町あるというアレキサンダー橋を渡る。長崎は今ごろ午後10時位。
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9月 4日[葉書5 ] | 午前9。スモレンスクにて。
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9月 8日[葉書6] | ベルリン発の葉書。本日9時25分ベルリンを発ち、9月9日午後7時にロンドン到着予定。
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9月10日[葉書7] | ロンドンに到着。翌10日に長崎の妻光井に葉書を書いている。
From Y.Hidaka No.26 Cathcart Rd South Kensigton S.W. London
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胖のアルバムに明治41年、大沢三之助とロンドンで一緒だったことを思わせる写真がある。大沢三之助は野口孫市と同期で明治27年東京帝国大学工科大学造家学科卒業である。明治41、2年頃ロンドンには大沢、富本をはじめ多くの日本人が滞在していた。
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ちょうどロンドンで開催されていたFranco British Exhibitionを観覧したと推測される。Franco British Exhibitionの会場と胖の宿は近かった。Exhibition会場の地図も所持していた。絵葉書も集めている。[博覧会の地図]
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10月3日[葉書9] | グラスゴーに到着。ロンドンより余程静か。
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10月7日[葉書10] | エデンバラにて。小生儀昨夜当地着。リバプール、マンチェスターを見て15日頃ロンドンに帰着の積もり。
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胖の遺品の中にイギリス、エディンバラのポケット地図がある。地図には建
物が鉛筆でマークされている。[地図]
マークされているのは、Waverley Station周辺の建築である。駅の北、Queen StreetのNational Portrait Gallery, この建物は1880年にRobert Rowand Andersonが設計したネオ・ゴシック建築である。 Resister Office,西のChapel Royal, The Palace of Holyrood Houseのこと。 National Gallery, County Hall, Perliament Office, University Medical Callege, South BridgeのEdinburgh University の8ヶ所である。
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10月27日[葉書11] | ケンブリッヂ着。田村藤四郎宛。雨天で大いに閉口、別に驚くべき建築物もなく失望した旨を書いている。
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11月 1日[葉書12] | 光井宛。
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11月11日[葉書13] | West Brompton消印。田村藤四郎宛。9日ロンドン市長が交代した。
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胖は明治42年1月ロンドンにいた。住まいは26, Cathcart Rd. West Brompton S.W. Brompton roadに面した百貨店Harrodsの案内図が遺品にあるが、きっとHarrodsを見物したに違いない。ハイドパークやロンドンの中心街を満喫し、住むならロンドンと孫に語ったのだろう。
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1月20日[葉書14] | スイス、インタールラッケンからの葉書。当地方雪景色。明朝ルセルンへ出発。
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1月24日[葉書15] | リヨン。今朝当地に着。スペインと異り寒気甚数。午後当地を発ってジェノバに向かう積もり。
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1月26日[葉書16] | ジェノバにて。昨夜当地着。1泊して明朝ルセルンへ向かう積もり。
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1月30日[葉書17] | ミラノ。昨夜当地到着。当地も中々寒気甚数閉口。
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2月 1日[葉書18] | ヴェニスにて。昨夜当地着。当地見物の後、明後日朝ジェノアに向かうつもり。当地も中々寒し。
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2月 3日[葉書19] | ピサ。本夕当地着。
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2月 5日[葉書20] | 於フローレンス。4日フローレンス着。ピサに比べて寒い。
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2月 6日[葉書21] | フィレンツェ。
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2月 7日[葉書22] | ローマ着。本夕当地着。中々繁華な土地、気候温暖。
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2月11日[葉書23] | 消印、於ローマ。
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2月12日[葉書24] | 長崎消印、スペイン、バルセロナ。
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2月12日[葉書24] | 長崎消印、スペイン、グラナダ。
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2月19日[葉書25] | ローマ。
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2月20日[葉書26] | 於ナポリ。先刻当地着。7時20分発でメシナに向かう積もり。
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2月25日[葉書27] | メシナ着。拝啓小生儀去る21日当地着。全市丸潰の有様と書いている。
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イタリア、シシリー島メシナで地震があったのは、明治41年12月28日。
7万から10万人が亡くなった大地震、マグニチュードは7.5と推定されている。
メシナの惨状を目の当たりにしたことが、後の住友銀行東京支店設計に生かされたのかもしれない。東京支店は大正12年の関東大震災にも倒潰することはなかった。
遺品の中に、「Building structures in earthquake countries 」By Alfredo Montel, Translated from the Itarian,with additions by the author,London,Charles Griffin & Company,1912年 の1冊がある。
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3月 1日[葉書28] | 於:ナポリ。拝啓一昨27日「メシナ」より当地着。明日ブリンデシーより海を渡り「グリース」ー「アゼンス」に向かう積もり。
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3月 3日[葉書29] | 於ブリンデシイー。先刻午後2時頃当地到着。船でグリース(ギリシャ)のパトラスに上陸、汽車でアゼンスに向かう。当地方中々寒し。
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3月 5日[葉書30] | アゼンス着。海上平穏本日午後3時半頃当地到着。
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3月 8日[葉書31] | イスタンブール。今朝当地着、明朝「コンスタンツァ」より「ブダペスト」へ直行する積もり。
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3月 8日[葉書32] | コンスタンチノープル。
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3月11日[葉書33-1] | ブカレスト。9日午前10時、コンスタンチノープルを発つ。風波のため船7時間ほど延着。大風雪のため汽車が途中で立往生し、11日今朝1時当地着。
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3月11日[葉書33-2] | ブカレスト。
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3月12日[葉書34] | ブダペスト。
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1908年出版のブダペストの地図が残っている。[地図]
"Neuster Plan von BUDAPEST"1908
地図に鉛筆でマークがある。
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3月14日[葉書35] | ヴィエナ。コンスタンチノープルからウィーンに到着。胖は探偵風の男2人に付きまとわれて大閉口。
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胖はつきまとわれて閉口した葉書を2枚書いている。1通は光井宛、もう1通は田村藤三郎宛だが投函しなかった。2枚書くほどショックだったのだろう。
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3月18日[葉書36] | 消印、ドレスデン発
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3月19日[葉書37] | ベルリン。
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3月22日[葉書38] | Ada Kalehの絵葉書、発信地不明。
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3月24日[葉書39] | 消印、ハンブルヒ。
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3月25日[葉書40] | ケルン。
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4月17日[葉書41] | 胖はCathcart Rd, S.Kensigtonにいた。
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この後、7月までの絵葉書は残っていない。胖がロンドンからニューヨークに渡りフィラデルフィアに着くまでのものだ。
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7月 5日[葉書42] | フィラデルフィア。
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7月 7日[葉書43] | 本朝ピッツバーグ着。鉄工場を見て、シカゴへ向かうつもり。英国のマンチェスターと同様、市中に煤煙多く閉口。
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7月 9日[葉書44] | 今朝シカゴ着。暑気に閉口。13日に出発して、桑港に着く積もり。
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7月15日[葉書45] | サンフランシスコ。
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7月18日[葉書46] | シアトル。土佐丸で帰朝する予定。この時シアトルで開催されていた
ALASKA-YUKON-PACIFIC EXPOSITION(アラスカ・ユーコン太平洋博覧会)の農業館と工業館を見学予定と書いている。
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ALASKA-YUKON-PACIFIC EXPOSITION(アラスカ・ユーコン太平洋博覧会)は1909年6月1日から10月16日までワシントン大学の構内を会場として開催された。期間中70万人が訪れたという。
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