第20回大阪資料・古典籍室1小展示 平成10年7月1日〜8月11日 |
西鶴と生玉 |
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生玉神社南坊址には現在、浮世草子の作者として有名な、大阪を代表する作家井原西鶴の像があります。 江戸時代に生玉神社で活躍した人といえば、上方落語の祖と言われる米沢彦八がまず浮かびますが、大作家西鶴も、デビューの場として生玉神社を選んだのでした。 今回は、西鶴の本格的出発点『生玉万句』を取り上げることで、意外と一般的には知られていない「浮世草子」執筆以前の西鶴にスポットをあてたいと思います。
I
生玉神社(生国魂神社)は難波と天王寺との中間に位置し、江戸時代には大変な賑わいを見せました。安政年間に書かれたと見られる『摂津名所図会大成』巻四にはその様子が絵と文で伝えられています。
この賑わいを利用して様々な興行が催され、その中から彦八や西鶴という、今日まで語り継がれることとなる人物が登場します。 寛文十三年(1673)三月、当時は井原鶴永と名乗っていた三十二才の西鶴が生玉神社南坊で行ったのは「万句興行」。 十二日間を要して百韻百巻を成就した一大パフォーマンスです。「出座の俳士総べて百五十人、猶追加に名を連ねた者を加へると、優に二百人を超える」(野間光辰 『刪補 西鶴年譜考證』 <255.3-61> )という大興行であり、同年(延宝元年)六月にはそれが『生玉万句』として刊行されています。それまでほとんど知られていなかった西鶴の本格的デビューです。 『好色一代男』『好色五人女』『好色一代女』あるいは『日本永代蔵』『世間胸算用』といった「浮世草紙」と呼ばれる散文形式の作品によって、日本文学史上不滅の存在となった西鶴の出発点は俳諧でした。 実は初めての散文『好色一代男』を四十一歳で執筆し、それ以降散文作家として活動した十一年間(五十二歳で没)よりもはるかに長い時間を、彼は俳諧に費やしているのです。 更には諸研究によって、彼の散文の中にも、俳諧を通して培った様々な要素が見出されてもいます。
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『西鶴文学地図』大谷晃一著 | <913.52-28N> |
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<913.52-5N> |
『西鶴』 「浪華西鶴翁像」 天理図書館編 | <む-222> |
『新撰増補 大坂大絵図』 (古板大坂地図集成) | <378-846> |
『北条団水集』俳諧 上野間光辰 吉田幸一編 | <222-1457> |
そんな西鶴の創作活動を活発化させた大きなきっかけは、貞門に代表される古風な俳諧から脱する軽妙洒脱な新興俳諧「談林」の先駆、西山宗因との出逢いでした。
貞門の中ではさほど高い評価を得ることができなかった西鶴は、自らの居場所を反貞門という立場に見出したと言えます。
実際、『生玉万句』における西鶴の序文には、古風で伝統的な俳諧への猛烈な攻撃性が込められています。
「或ヒト問フ、何とて世の風俗しを放れたる俳諧を始まるゝや。答ヘテ曰ク、世こぞって濁れり、我ひとり清り、何としてかその汁を啜り、其糟をなめんや」
「朝于夕べに聞うたは耳の底にかびはへて、口に苔を生じ、いつきくも老のくりご と益なし」
自らの俳諧を「阿蘭陀流」(変なものの俗称)、「文盲」などと酷評した旧派への徹底的な対決姿勢が、凄まじい自信と共に前面に出ているのが分かります。
確かに『生玉万句』は時期的に、宗因ブームとその後列に続く俳諧革新の先駆となっていますが、『生玉万句』刊行当時、そのことについて触れた文献がまったく見当たらないこともあり、当時の西鶴の評判はさほどでもなかった、と見るのが今日の一般説となっています。
「宗匠立机披露のように個人名を前面に出した、晴れがましい万句にしたかったにちがいない」(加藤定彦 『俳諧師西鶴の実像』 <255.3-213>)が、「バックアップなしに披露の万句を強行する勇気はなく」、「やむなく生玉社法楽を大義名分に」(同上)、アマチュア俳諧師を集めた、といった説もあります。(万句とは本来、社寺法楽を趣旨とするものであり、当時も京都や大坂ではそれが主流でしたが、江戸では個人名を前面に出す万句興行がもてはやされていました)
『生玉万句』 井原西鶴著筆 穎原退蔵解説 <226.3-170> 『大坂誹歌仙』(『歌仙大坂俳諧師』) 井原西鶴編画 <226.3-132> 『俳諧胴骨』 井原西鶴 [ほか]著 <へ1-106> 『古今俳諧女歌仙』 井原西鶴著筆画 <226.3-158>
延宝三年(1675)四月、妻の死に際して手向けた『俳諧独吟一日千句』を刊行した西鶴は、この頃から自らの才能を「速吟」に見出していきます。
延宝五年(1677)三月、生玉本覚寺で一昼夜独吟千六百句を興行し、同年五月にそれを刊行した『俳諧大句数』、延宝八年(1680)五月、生玉神社南坊で一昼夜独吟四千句を興行し、翌年四月にそれを刊行した『西鶴大矢数』といった「矢数俳諧」と呼ばれるスタイルで、西鶴は俳諧師としての地位を築くのです。 「矢数」という呼び名の由来に関しては『俳諧大句数』の序で西鶴自身が記しています。
「天下の大矢数は、星野勘左衛門、其名万天にかくれなし。今又俳諧の大句数初めて
我口拍子にまかせ、一夜一日の内、執筆に息もつがせず……」
星野勘左衛門は当時、三十三間堂の通し矢の名人として有名であった人物。「大矢数」「大句数」とは、俳諧を通し矢に見立てたネーミングです。
西鶴によって提唱された矢数俳諧は、月松軒紀子(延宝五年九月に独吟千八百句)、大淀三千風(延宝七年三月に独吟三千句)などのライヴァルの出現で盛大なものとなり、西鶴自身も他の者に記録を破られると必ず新記録更新のための興行を行い、実際記録保持者に返り咲くほど力を入れていましたが、量や速度を競うことの文学的、俳諧的価値に関しては、当時も今日も大きな疑問が投げかけられています。
西鶴自身もそのことに全く無頓着というわけではありませんでした。没後九年目にあたる元禄十五年(1702)に刊行された、轍士撰『花見車』には西鶴の矢数俳諧に対する結論めいた句が収録されています。
射て見たが何の根もない大矢数
西鶴が敢えて矢数俳諧にこだわったのは、大興行による自らの存在の誇示という目的があったからだと見るのが自然なようです。
『西鶴大矢数』が刊行された頃、西鶴は俳諧師の余技として、『好色一代男』を執筆し始めたと言われています。ここから先が、世にも名高い大作家、井原西鶴の歴史となるわけです。
『定本西鶴全集』 第十、十一上、十一下巻 穎原退蔵 ほか編 <222-147> 『談林俳諧集』 (古典俳文学大系 3) 飯田正一 ほか校注 <226-523> 『元禄俳諧集』 (新日本古典文学大系 71) 大内初夫 ほか校注 <918-2N-71> 『俳諧師西鶴』 乾裕幸著 <226-917> 『上方の文化 元禄の文学と芸能』 大阪女子大学国文学研究室編 <221-1459>
『井原西鶴』 (新潮古典アルバム 15) 谷脇理史 吉行淳之介編著 1991 <913.2-8N> 『井原西鶴』 (図説 日本の古典 15) 長谷川強 ほか著 1996 <220.7-447> 『井原西鶴』 (カラーブックス 482) 桝井寿郎著 1979 <か1-121> 『大阪春秋』 第67号 井原西鶴と大阪 1992
第79号 大阪の歌人俳人 1995<雑-2499> 『家蔵日本地誌目録』 高木利太著 1927 <015-41> 『西鶴を学ぶ人のために』 谷脇理史 西島孜哉編 1993 <913.52-25N> 『西鶴事典』 江本裕 谷脇理史編 1996 <913.52-59N> 『浪花百景 いま・むかし』 大阪城天守閣 1995 <291.63-481N>
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<378-1107> |
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<378-144> |
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<378-534> |
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<ぬ-178> |
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<ぬ-178> |
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<914-48> |
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<子-373> |
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<甲和-232> |
『官幣大社 生国魂神社誌』 野田菅麿著 大正八年(1919) | <124-13> |
『西鶴文学地図』 大谷晃一著 1993 | <913.52-28N> |
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<913.52-5N> |
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<む-222> |
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<378-846> |
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<222-1457> |
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<918-2N-71> |
『談林俳諧集』 (古典俳文学大系 3) 飯田正一 ほか校注 1971 | <226-523> |
『定本西鶴全集』 第十、十一上、十一下巻 穎原退蔵 ほか編 1977 | <222-147> |
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<226.3-170> |
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<226.3-132> |
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<へ1-106> |
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<226.3-158> |
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<221-1459> |