第36回大阪資料・古典籍室1小展示 平成12年7月18日(火)〜8月30日(水) |
後藤明生と『しんとく問答』 |
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昨年8月2日、作家・後藤明生氏が亡くなった。彼は晩年、近畿大学文芸学部で教鞭をとり、学部長まで務める中で、大阪という土地に対して高い関心を寄せていた。その集大成が一冊の作品集となったことは、彼の作家人生のみならず、大阪にとっても非常に意義深い。 そこで、後藤明生―大阪―文学というトライアングルが存在した唯一の証拠と言える作品集『しんとく問答』を、彼の一周忌にあたって取り上げ、後藤氏が大阪をどのように捉えていたのかを探ることによって、大阪の新たな一面を見出せればと思う。
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ゴーゴリを中心としたロシア文学を主なテクストに、文学における『笑いの方法』に執着した後藤明生の作品は、その全編が困惑に満ちている。『しんとく問答』の作品群も、作者本人を思い起させる単身赴任の大学教授が、大阪という土地に接して困惑を抱えるという統一した設定がとられている。その困惑を解消するべくとった方法が、「歩く」ことと「調べる」ことであり、本作品集は主人公(=作者)が大阪地図を片手にあちこち歩き、写真を撮り、調べたその記録であるとも言える。
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今展示では、後藤明生氏が調べ、引用している様々な資料を中心に紹介する。
作品概略
マーラーの夜
KBS交響楽団によるマーラー演奏会の案内をテレビで見たのを契機に、マーラーの交響曲第一番第三楽章、ボヘミア風葬送行進曲のメロディと「ダートー ベーイエイ(打倒米英)」という古い記憶とが主人公の内面で奇妙に合致する。この奇妙な組み合わせの間に、教会の鐘の音「キン コン カーン」が割って入り、奇妙な三重の記憶となって本作は幕を閉じる。本作での「歩く」と「調べる」は、自宅付近にある聖マリア大聖堂の鐘の音を導き出すための手順といった役割になっている。
十七枚の写真
『大阪市制100周年/新区1周年記念/みんなで歩こう中央区わがまち100選』という
大阪城ワッソ
「十七枚の写真」と同宛先と思われる書簡体小説。ここでは大阪城公園内の光景が作者の視点から丁寧に描写されている。たまたま開催されていた菊祭の様子、本丸の様子などを報告した末、大阪城天守閣を背景にした記念撮影で歪んだ照れ笑いを浮かべる韓国人観光客の姿から「壬辰の倭乱」を思い、いつしか話題は本作の本題、外堀跡グラウンド(現在、外堀は復元されている)で目にした「四天王寺ワッソ」の練習風景へと移行してゆく。
四天王寺ワッソ
『大阪城ワッソ』から一年後、再び同宛先へ送った書簡体小説。大阪城公園内の菊祭に出かけた報告にはじまり、昨年外堀跡グラウンドで見た「四天王寺ワッソ」の練習風景の話題を経由して、それ以降二年連続して「四天王寺ワッソ」を見物に行ったことへと展開してゆく。また、四天王寺の「石の鳥居」に話題が及ぶと、謡曲『弱法師』の俊徳丸、説教節『信徳丸』への興味を綴り、それが以降の三作へとつながってゆく。
俊徳道
これも前三作同様、同宛先へ送られた書簡体小説である。ここではまず、井原西鶴の話題に端を発し、四天王寺から俊徳道までの大規模な散策へと話題が変わる。彼は『布施市史』に書かれた「俊徳丸が高安の里から舞楽修行のために天王寺遠山式部の許に通った際、往来の便をはかって開かれた」という伝説の俊徳街道を地図上で約6.47キロメートルと想定し、その道程を歩いたのである。ただし本作では『弱法師』『信徳丸』の文献的解説、四天王寺から俊徳道へ至る地図的解説にとどまり、その散策の際に撮影した写真や実際の徒歩の模様などは次作へ委ねられている。
贋俊徳道名所図会
前作を引き継ぎ、四天王寺−俊徳道間を約二時間半かけていかに歩いたのかが詳細に綴られている。本作は「近畿の史跡を歩き記録する会」で主人公が、撮った写真を名所図会式に紹介する形で講演をするという、いわば講演体とでも言える形式になっている。ちなみにここでは割愛した「『芋粥』問答」も「明治大正文学を読み直す会」での講演という設定になっている。腓(こむら)返りの恐怖と葛藤しながら時に脱線しかけつつ、簡易カメラに栄養食品という軽装で歩いた模様が詳細に語られる。
しんとく問答
主人公(=作者)の「俊徳丸」への興味は、彼の足を高安に向かわせた。正確に言うなら八尾市高安山畑(やまたけ)村の鏡塚、俊徳丸の故地である。地図とガイドブックを頼りに迷いながら鏡塚へ向かう様や、鏡塚での出来事が、日記体で綴られている。また、これまでの書簡体や講演体に比べて文献引用やそれに関する考察がはるかに多い。土地・風土、伝承芸能、「口語(くちがた)り」から果ては創作・批評論にまで増殖しており、作者が本作品集の最後を日記体でまとめた絶妙さも見てとれる。
むすび
作品集『しんとく問答』は、大阪という土地に触れることで様々に発生した困惑に端を発して実施した「歩く」「調べる」という行為が、新たな困惑、疑問を誘発して終わっている。鏡塚で偶然知り合った地元の老人男性に対して投げかけた七つの疑問が箇条書きにされ、そのうちの六つまでが未解決のままであったり、直接出向いたことで発生した疑問を役所へ電話で問いかけ、たらい回しにされる場面で幕を閉じたりという点からも、後藤明生という作家が困惑を解消するというよりは、困惑そのものを文学化しようとしたのだという姿勢がうかがえるようだ。 この展示で、後藤明生という文学者が大阪の何をどう感じ、大阪の何にどう困惑し、大阪の何をどう追いかけ、大阪の何をどう描こうとしたかが少しでも明らかになればと思う。
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「この八篇を書くのに五年かかったが、そもそものきっかけは四天王寺との出会いだった。親鸞上人像と弘法大師像と石の鳥居が共存する四天王寺は、不思議な寺である。同時に寺=仏教を超えたポリフォニックな宇宙=トポスである。聖徳太子によって建てられ、中国大陸・朝鮮半島の歴代国家との国際交流の場=迎賓館の役割りも果して来た四天王寺は、混血=分裂都市・大阪を象徴するトポスだといえる。ポーの『群衆の人』はロンドンの街を歩きまわる。ゴーゴリの『鼻』は五等官に化けた鼻がペテルブルグを歩きまわる。そして『しんとく問答』は語り手「私」が、混血=分裂都市・大阪を歩きまわる小説である。」 ――後藤明生「歩きまわる小説『しんとく問答』」(『小説の快楽』に所収)より
後藤明生氏プロフィール
後藤明生(ゴトウメイセイ) 昭和7(1932)年4月4日生、平成11(1999)年8月2日没。本名明正(あきまさ)。朝鮮咸鏡道永興(現在の朝鮮民主主義人民共和国)生れ。中学時代に終戦を迎え、福岡県に引き揚げる。早稲田大学露西亜文学科卒。在学中から創作活動に入り、昭和30年「赤と黒の記憶」が全国学生小説コンクールに入選。広告代理店、出版社勤務のかたわら同人誌等で活躍し、昭和42年「人間の病気」が芥川賞候補となる。翌43年から文筆業に専念。昭和52年『夢かたり』で平林たい子文学賞、56年『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、平成2年『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞している。平成元年より近畿大学文芸学部教授、5年から同学部長を務める。平成3年には大阪に移住。大阪府主催「山片蟠桃賞」審査員、「織田作之助賞」選考委員なども務めた。著書に小説『笑い地獄』『挟み撃ち』『壁の中』『カフカの迷宮』『しんとく問答』等、エッセイ集『雨月物語紀行』『笑いの方法−あるいはニコライ・ゴーゴリ』(池田健太郎賞受賞)『小説−いかに読み、いかに書くか』『小説は何処からきたか』『小説の快楽』等。
展示資料リスト
『しんとく問答』後藤明生著 講談社 1995 装幀:田村義也 913.6−6381Nゴト 「新潮」1999.10 新潮社〈追悼特集:江藤淳・辻邦生・後藤明生〉 P91−47N 「オール関西」1998.6 オール関西〈大阪市文学碑を訪ねて 第5回宇野浩二〉 P05−77N 『蔵の中』宇野浩二著 昭和書房 1927 装幀:鍋井克之 あ1−117 『遠方の思出』宇野浩二著 昭和書房 1941 装幀:鍋井克之 あ1−120 『追手門学院小学校 百年志』大阪 追手門学院小学校 1988 376.2−27N 『大阪市政100年 新区1周年 みんなで歩こう中央区わがまち100選』 大阪 中央区コミュニティ協会,大阪市中央区役所 1990 請求記号未定 『大阪城』岡本良一編 今駒清則写真 大阪 清文堂 1983 521.8−96N 『摂津名所図会大成』其之一 暁鐘成著 松川半山画 京都 柳原書店 1976 378−1107 『四天王寺ワッソ 友情は千四百年の彼方から』 大阪 四天王寺ワッソ事務局 1999 イラスト:黒田征太郎 請求記号未定 『「わがまち天王寺」の文化財』大阪 天王寺区役所 1998 709.1−153N 『難波鑑』一無軒道治著 古版地誌刊行会編 大阪 だるまや 1924 378−352 『せつきやうしんとく丸』稀書複製会第251冊 米山堂 1934 朝日033−2 『摂津名所図会』巻二 秋里籬島著 竹原信繁画 浪花 森本太助 1798(寛政10) 378-26 『天王寺区史』大阪 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 328−349 『東高野街道』上 上方史蹟散策の会編著 大阪 向陽書房 1990 291.63−4N 『河内名所図会』巻五 秋里籬島著 丹羽桃渓画 浪華 森本太助 1801(享和元) 378−20 『宇野浩二全集』第12巻 中央公論社 1973 222−609 『折口信夫全集』第27巻 中央公論社 1997 918.68−124N−27 『謡曲集 二』日本古典文学全集第34巻 小学館 1975 220.7−153 『大阪府史』第5巻 大阪府 1985 328−747 『布施市史』第1巻 大阪 布施市役所 1962 328−341 『八尾市史』大阪府八尾市役所 1958 328−179 『貝塚市史』第1巻 大阪府貝塚市役所 1955 328−141 |