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第48回大阪資料・古典籍室1小展示
平成14年7月2日(火)〜8月30日(金)


菅原道真 近世の伝記資料展




― 没後千百年によせて ―


「百人一首一夕話」



当館2階中央ホールの壁面を見上げると、正面に「菅公」の名がはめこまれている。これは大正11年の当館改築時に文学博士井上哲次郎氏が、孔子、ソクラテス、アリストテレス、カント、シェイクスピア、ダーウィン、ゲーテそして菅原道真を世界の八哲として選び、文化の殿堂中之島図書館の壁面にぐるりと8枚のプレートを掲げたものである。 今年は菅原道真没後千百年にあたるので、当館所蔵の道真の近世伝記資料を中心に紹介し、改めて「天神さん」の偉大さを見直す機会としたい。

『百人一首一夕話』


《菅原道真の生涯》


【概  要】

 平安時代に活躍した菅原道真(845 〜903)は、非常にすぐれた漢文学の才能があり、また政治家としても当時の財政危機を見据えて、積極的に国政改革に取り組み、右大臣にまで昇任するが、その勢力の拡大を妬み、恐れた藤原氏の讒言(ざんげん)により、突然太宰府に左遷され、この地で不遇のうちに2 年後に亡くなる。しかし死後も神として民衆にあがめられ、「天神まいり」の伝統は、現在もなお盛んである。

【幼少よりの聡明さと勤勉さ】

 承和12(845) 年に是善(これよし)の三男として生まれた道真は、十代の始めに早くも詩才を発揮し、11才で「月夜に梅華を見る」の五言絶句を詠み、14才で詠んだ「臘月に独り興ず」は和漢朗詠集に採られている。この詩才を見て、父は毎日の詩作を課し、やがて過去最年少の18才で文章生(もんじょうしょう)に補せられる。
 後年の漢詩の中に、若い頃のことを「朋との交わりにも言笑を絶ち、妻子を親しみ習ふをもやむ」と詠み、友人とも交わらず、妻子とも親しまず、ひとえに学問に精進した勤勉ぶりがうかがえる。

【当代随一の学者・文人としての活躍】 

 やがて、元慶元(877) 年、33才の時、父祖二代いずれも任じた文章博士(もんじょうはかせ)となったことは、道真にとって至上の喜びであった。文章博士とは、律令制の大学で詩文、歴史等を教える教官で、現在の東京大学学長に当たる職である。
 また30才半ばで3 年間、陽成天皇に『後漢書』を進講した。
 道真の詩文集として『菅家文草』『菅家後集』があり、その他、『日本三大実録』『類聚国史』『新撰万葉集』等を撰している。

【讃岐守への転出】

 仁和2(886)年、道真42才の時、讃岐守(現在の香川県知事)に任ぜられ、文章博士等の要職を辞して4 年間の地方生活が続く。この事は道真にとって予想外の不本意な人事であったが、父祖の経営する私塾、管家廊下を中心に管家の勢いが増大するのを恐れた学者達が、道真を都から遠ざけたのではないかとみられている。
 しかしこの讃岐時代は、貴族の世界しか知らなかった道真に、世の中には草深い田舎があり、貧しい民衆の暮らしがあることを教え、これが道真の人間形成、ことに政治家道真を生み出す大切な時期であった。

【政界での栄達】

 讃岐赴任中、仁和3(887)年、宇多天皇の即位による藤原基経の処遇に関する阿衡(あこう) 事件が起こり、道真は基経に書状を送ってその解決に尽力した。このことから宇多天皇は道真を高く評価し、基経死去の直後蔵人頭(くろうどのとう) の重職に抜擢し、以降基経の子時平と並んで、参議、中納言と出世してゆく。
 昌泰2(899)年には右大臣に、さらに延喜元(901) 年には従二位に叙せられた。この官位の異例とも言える昇進は、宇多天皇の道真に対する絶大な信任によると言われている。
 学者としての活躍だけでなく、土地制度や税制度を見直し、民衆を救うための政治改革を断行しようとした有能な政治家としての顔もあった事が、近年の研究で判明してきた。

【遣唐使の廃止】

 寛平6(894)年に道真が遣唐使に任ぜられた時、道真が行路の危険、唐の戦乱の情勢等の理由から遣唐使の廃止を建議して決定され、以降遣唐使が絶えたことは史実として有名でである。
 この事は、唐を模範とするのを中止したことにより、日本文化の独自性を確立し、日本の実情に合った政治の遂行に繋がったとする説と、単に航行の危険を避けただけであるとする説がある。『管家文草』に遣唐使廃止の申請状が掲載されている。

【太宰府への左遷と死】

 道真の当時としては破天荒な出世に対し、藤原氏や学閥の反感は大きく、延喜元(901) 年正月25日、57才の時、天皇の廃立を謀ったかどで、突然太宰府権帥に左遷された。
 道真が正月8 日に従二位に叙せられた同じ月の25日に、時平らの讒言により勅使大納言清貫紅梅殿において宣命が下された。 突如の左遷を嘆いて<流れゆく 我はみくづとなりぬとも 君しがらみとなりてとどめよ>という和歌を宇多天皇に献ったが、すでに醍醐天皇に位を譲っており、宇多天皇は御所に駆けつけたが中にも入れず、座り込んで抗議するしかなかった。
 道真左遷後は、時平が実権を握り、全国で土地調査をし、さまざまな改革をして成功するが、これらの政策は道真の企てた道筋であった。
 道真は太宰府では詩を詠むことだけを楽しみとしたが、2 年後延喜3(903)年2 月25日にこの地で亡くなる。

【死後の天神信仰】

 道真死後、天満天神として神に祭られるようになったのは、一つは道真の人格により、一つは当時の怨霊思想によると言われる。学者の名家・菅原家出身で、政治家として忠誠無比、しかも情けに厚い道真の左遷と太宰府における悲しい死去は、当時の人々に大打撃を与え、深い悲しみと怒りを呼び起こした。そして人々は怨霊思想により、道真死後の打ち続く凶事、京都における落雷、地震、洪水、旱魃、火災、などを道真の怨霊の所為と考えた。
 左遷の陰謀に関わった人々は、次々と道真の怒りにより、非業の死をとげたと信じられ、首謀者藤原時平の死については、『扶桑略記』等に悲惨に書き表されている。
 道真の祟りと称する異変が、相次いでおこり、延長元(923) 年、道真の罪を取り消して本宮に復し、正暦4(993)年には正一位太政大臣を贈られた。


 怨霊思想の影響を受けて、怨恨の神としてまつられた天神は、一条天皇時代は文学の神、江戸時代は寺子屋で書道の神として敬われ、明治以降は学問の神として崇敬された。時代と共に推移した「天神さん」には、没後千百年経った現在も、コンピュータの申し子達が入試合格祈願に訪れており、現在、天神を祭る神社は、全国で1万2千社にのぼると言われる。 




《展示資料》




A 伝記資料

  かん けさんだい きりゃく
『菅家三代紀略』 1冊 刊 353-80

 祖父(清公)、父(是善)、道真の三代の肖像とそれぞれの詩文を集めたもの。
・菅家三代の肖像



 かん けしょくろく
『菅家寔録』 松・竹・梅 3冊 松本 慎(愚山)著 北村四郎兵衛等 寛政10(1798) 352-48

道真の年譜、系図やその他エピソードを絵入りでまとめた伝記。
・松の巻頭に載る御神像。
・梅の巻に載る11才で<月夜見梅華>を作詩した頃の図



 かん けせいけいろく
『菅家世系録』 上・中・下 3冊 玉田永教著 刊 文化6(1809) 序 朝日 353-35

菅原氏の先祖土師氏は、中国から渡来した優れた学問、文化、土木技術を持つ一族で、朝廷に仕えて重用され、道真生誕の百数十年前に菅原姓に改めた。
・上巻のこの図は、道真の生誕を描いたもの。
・下巻のこの図は、京都で落雷などの凶事が起きた時の様子を描く。このような凶事は、すべて道真の怨霊によると信じられた。



 かん けせいびょうれきでん
『菅家聖廟暦伝』 上・下 2冊 桑原梅性編 元禄15(1702)跋 352-504    

道真の伝記を年代順に漢文でつづったもの。
・上のこの頁には元慶元(877) 年、道真33才の時に文章博士(もんじょうはかせ) になったことを記している。文章博士は現在の東京大学学長に相当する。



  てんまんぐうじつでん ず え
『天満宮実伝図会』 1冊 貝原益軒元稿 梅園主人編 松川半山画 大阪 播磨屋五郎兵衛等 天保13(1842) 124-178    

見返しに「渓斎英泉画図」とあり。
・道真は時平の讒言により、太宰府に左遷されたが、諸侯が左遷の陰謀を相談している図で説明に「時平公御妹の皇后、その余諸卿とはかりて菅公を讒言し玉ふ図」とある。



  ひゃくにんいっしゅひとよがたり
『百人一首一夕話』 巻3 1冊 尾崎雅嘉著 大石真虎画 浪華 敦賀屋九兵衛 天保4(1833) 石崎224.6-1
   

「小倉百人一首」の注釈書で、各作者の略伝や逸話をかなり詳しく述べており、道真についても、25丁分の記述がある。
・この図は、道真が太宰府へ出発する時の様子で、侍女達が悲嘆にくれている様子を描いている。右は百人一首の道真の歌<此たびは ぬさもとりあへず手向やまもみちの錦かみのまにまに> 『古今集』所収。



  てんまんぐう ごでん きりゃく
『天満宮御伝記略』 上・下 2冊 平田篤胤著 刊 朝日124-4    

道真が太宰府へ出発する折り、常に愛していた梅を見て名残を惜しみ<東風ふかば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ>と詠んだ飛梅の歌はあまりにも有名である。
元禄年間(1688 〜 1704)に急速に発達した寺子屋では、道真の神像を掲げ、書道・学問の神として礼拝した。


B 菅原道真の著書



  かん けぶんそう
『菅家文草』 巻1 〜12 6 冊 菅原道真著 京都 鷦鷯惣四郎 寛文7(1667) 跋 233-154

道真11才から左遷前の右大臣時代までの詩文を収録し、醍醐天皇に奉納したもの。11才で作詩した<月夜見梅華>を最初に載せる。



  かん けこうそう
『菅家後草』 1 巻 1 冊 菅原道真著 大坂 河内屋源七郎等 貞享4(1687) 233-154    

菅公左遷後の漢詩を集めたもので、死の近いことを知り、詩友の中納言・紀長谷雄に遺贈したと伝えられる。内発的な創作衝動によって作られた詩が多い。


C 伝・菅原道真の著書



  かん け いかい
『菅家遺誡』 2 巻 1冊 伝・菅原道真著 嘉永5(1852) 北野法雲院僧正光通序 朝日173-7    

九百五十年記念出版
道真が著したとされる教訓集で、寺子屋での教材としても使用された。



  かん け す まぎょき
『菅家須磨御記』 1冊 成田梅甫筆 京都 河南儀兵衛等 文化7(1810) 春日楼蔵版 石崎924-4    

道真が須磨へ旅行した時の紀行文。



  かんこうしんぴつやくしきょう
『菅公真筆薬師経』 巻子本 1巻 大阪 博文堂 明治42(1909) 12-69    

道真の真筆と伝えられている薬師経の複製。書道の神と仰がれる道真の筆跡と伝えられるものは多数あるが、真筆と認められる確証のあるものがないといわれている。





 《参考資料》
   この展示を開催するにあたり、下記の資料等を参考にしました。

 『大阪天満宮御文庫国書分類目録』      大阪天満宮 1977 011-1957
 『坂本太郎著作集 9 聖徳太子と菅原道真』 吉川弘文館 1989 320.7-307
 『菅原道真』 坂本太郎著 吉川弘文館 <人物叢書 100> 1956 351-1721
 『菅原道真と天満天神』    遠藤泰助著 帝国出版協会 1944 352-5449
 『天神さまの美術』 東京国立博物館 福岡市博物館 大阪市立美術館編 NHK 2001 172-28N