第72回大阪資料・古典籍室1小展示 平成18年7月14日(金)〜9月13日(水) (入場無料) |
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愛棋家そして文壇将棋界の強豪だった
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作家藤沢桓夫(明治37年生〜平成元年没)は鋭い攻めを身上とする将棋を指した。若いころの藤沢は市井の会所に出かけて打ったこともあったが、所属した大棋会や学士会倶楽部は別としてアマチュアの大会や交流戦にはめったに参加しなかったという。だが指せば実力を発揮し母校東大のOB会では五戦全勝の記録があるという。プロの棋士について指導も受け、プロとよく指した。作家山口瞳は自著「血涙十番勝負」で、「もし僕が飛落で二上八段に勝ならば、文壇でいえば、幸田露伴、菊池寛以来の快挙となるのではないか。(藤沢桓夫先生のようにプロに近い方は別格とする)なにがなんでも勝たねばならぬ。僕は次第にそう思うようになった。」(注1)と書いた。 文壇の愛棋家五人を挙げよといわれたら、一に幸田露伴、二に菊池寛、三に藤沢桓夫、四に山口瞳と順番にあげていきたいところであるが、これには反論が聞こえてきそうである。なにしろ文壇には愛棋家が多かった。井伏鱒二、織田作之助、坂口安吾、高木彬光、滝井孝作、角田喜久雄、土岐雄三、豊田三郎、直木三十五、永井龍男、山本周五郎、山本有三、と名前をあげればきりがないだろう。彼らの中には強豪で鳴らした文士もいた。だが、ある時期、文壇将棋界の実力ナンバーワンは藤沢であったことは確かである。 藤沢はアマ五段の免状を日本将棋連盟から受け、没後七段を追贈された。 藤沢桓夫が生涯愛した将棋の世界を、免状、愛用の駒、プロの棋書、将棋界を描いた小説などを藤沢文庫のなかから取り上げご紹介します。 (注1)山口瞳『血涙十番勝負』の「第一番 八段二上達也」の中にある文章。 凡例:図書の場合は、書名、著者、出版者、出版年、藤沢文庫の請求記号の順。藤沢桓夫の著書は名前を省いた。 ◆藤沢桓夫遺影 藤沢9142 ◆藤沢桓夫肖像デッサン 藤沢9109 ◆将棋免状 初段 昭和18年4月29日 藤沢9127 将棋大成会会長 名人木村義雄 将棋大成会名誉会長 十三世名人 関根金次郎 この免状の発行は将棋大成会。棋界の分裂のあと昭和11年6月に誕生したのが将棋大成会(日本将棋連盟の前進)。社団法人日本将棋連盟の発足は昭和24年7月のこと。 七段 平成元年6月12日 藤沢9128 日本将棋連盟 会長二上達也 名人谷川浩司 十五世名人大山康晴 ◆将棋盤と駒 藤沢1470 藤沢文庫にある駒は、“水無瀬駒 香月作”である。 「駒の文字は平安時代から能筆家が書き、十五世紀から十六世紀にかけて(中略)水無瀬兼成らが筆を執ったとされる。とりわけ水無瀬家は兼成―親具―氏成と代々能書家を輩出したため、江戸時代には駒の書体の宗家とされ、その駒は「水無瀬駒」として珍重された。」(『日本将棋集成』窪寺紘一著 新人物往来社 1995) 「大阪には、大阪彫りがある。略字の直彫り駒で、黄楊材、椿材、柳材で彫ってある。一名《ごんた駒》ともいわれる。駒師のあいだでは、中物(中級品)として扱われるが、若き日の坂田三吉も、この大阪彫りで腕を磨いたのである。」(『有段者 将棋名鑑 昭和44年』日本将棋連盟 藤沢1470) ◆「藤沢桓夫書 将棋の駒」<色紙> 藤沢9150 縦33.4p、横24.2cmの色紙に、鉛筆で書かれた駒形に王将、角行、飛車など15の駒の名称を毛筆で書いている。浪華 藤澤桓夫書とある。 〜藤沢桓夫の将棋小説〜
◆『真剣屋』 東京 東方出版 昭和34年 藤沢59 収録作品:将棋に憑かれた男、動物時間、ラスト・シーン、海の色、変った男、青春の一例、吉野天人、花ざかりの村、真剣屋
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◆『小説将棋水滸伝』 東京 文藝春秋 昭和42年 藤沢53 (装幀・風間完) 収録作品:阪田三吉覚え書、大阪の将棋指し、北区老松町、将棋の鬼、名人、 <第二部> 将棋に憑かれた男、真剣屋
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◆『小説棋士銘々伝』 東京 講談社 昭和50年 藤沢41 (装釘意匠・川田幹) 収録作品:阪田三吉覚え書、大阪の将棋指し、北区老松町、将棋の鬼、名人、角田流空中戦法、投了図
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◆『四十一枚目の駒』 東京 講談社 昭和51年 藤沢122 (装釘意匠・村上豊) 収録作品:四十一枚目の駒、香水の甘い匂い、刑場のネオン、黄色い夢
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◆「材料帳 −昭和44年5月−」 藤沢8041 材料帳は小説の構想やアイデアをつづったB4版のノート。そこに“将棋推理小説 時代物にも出来る 幕末の大阪”とあって、小説の筋書きが4ページに渡って記されている。主人公の名前や年齢もある。“大鹿安治 26才”。これは「四十一枚目の駒」のアイデアである。 ◆『将棋童子』 東京 講談社 昭和54年 藤沢54 (装釘意匠・中一弥) 収録作品:将棋童子、白い馬の夢、鶏が鳴くまで、強い星の子、小説内藤国雄、<第二部> 将棋風来坊、歩が殺された
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この本のあとがきで藤沢は、大野源一の死を悼み次のように書いた。「「振り飛車名人」の異名で全国の将棋ファンに親しまれた洒脱な人柄の大野源一九段が、せっかく脳腫瘍の大患から見事にカムバックしながら、思いがけぬ交通事故で昨春この世を去ったことだ。大野さんは私の四十余年にわたる古い友人でもあり、私の将棋の師でもあっただけに、彼の罪のない毒舌が聴けなくなったことは寂しき限りだ。」 〜藤沢桓夫の将棋関係の随筆〜
◆「遊び好き」(原稿6枚) 昭和52年 藤沢8037 「遊ぶことのなかで一番好きなのが将棋で、指しはじめると大抵時間を忘れてしまう。」「私のような将棋好きの場合は、自分が指さなくても、他人の指すのをそばで見ていて、退屈することはめったにない。それがどんなにヘボ同士の対局でも、やはり面白い。」などと書いている。 藤沢の随筆集『私の大阪』(藤沢2586)p89−92所収。 ◆『大阪手帖』 東京 秩父書房 昭和16年 藤沢29 「将棋雑談」p216〜:友達の少ない大阪で将棋を指す唯一の相手が秋田実であり、秋田が詰将棋の名人であると紹介し、東京で永井龍男と二番指して互角、観戦していた将棋初段の佐々木茂索から強くなったとほめられこと。また雑誌「文学界」編集者の内田克己に作家山本有三と互角だろうと折り紙をつけられたこと、大阪の片岡鉄平の宿で山中義秀と将棋をし、寝不足で負けたことなどが書かれている。永井、佐々木は当時文藝春秋の社員であった。永井は「オール読物」「文藝春秋」の編集長を歴任、後作家として独立。 「将棋随筆」p219〜:−駒の魅力−では、神田辰之助八段が好きな駒は“角”、藤沢は“飛車”が好きだと書いている。 −詰将棋−では、退屈したり、仕事に疲れたり、寝る前に詰将棋を解く、「解き慣れると、「週刊朝日」程度のは大体二三分で解けるようになる。その代り、菊池寛先生から、「君は詰将棋は初段の実力があるようだね」と、おかしな褒められ方をするようなことも起る。」とあり、続いて、大阪の街頭詰将棋屋が「すっかり影を没してしまったのは驚くばかりだ」と書いている。 ◆『大阪手帖』 大阪 三島書房 昭和21年 藤沢29 (装釘・吉原治良) 「わが交友録」p223〜:「それから、僕には将棋の友達がだいぶある。木見八段門下の山中五段はもう数年来の僕の先生である。毎週やって来る。北村四段、星田四段などもよく仕事にかかっている時に限ってやって来る。(中略)大野八段に、僕は二年ほど前に飛車落をたしか一番勝ち越しているが、飴をねぶらされているのだと僕は最近になって考え出した。今度は本当に勝ちたいと考えているが、大野君が東京に移住してしまってなかなかその機会が来ない。当年七十七歳の坂田三吉翁も時どきひょっくり訪ねて来られる。(中略)僕は坂田さんには飛車落ちで一番指して頂き、これは拾わせて頂いた。」(*坂田の坂は原文のママ) | |
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◆『大阪 −我がふるさとの...−』 田村孝之助共著 神戸 中外書房 昭和34年 藤沢21 (装幀・田村孝之助) 「縁台将棋」p202〜:縁台将棋独自の指し方、楽しさなどを語っている。 ◆「将棋礼賛」 『有段者 将棋名鑑 昭和44年』 東京 日本将棋連盟 昭和44年 藤沢1470 『有段者 将棋名鑑 昭和44年』に掲載され藤沢のエッセイ。「3,4年前に私は日本将棋連盟 から五段を頂いたが、内心は不満であった。自分には五段の力はないと思うし、それまでの四段の方がずっと気が楽だという気がしたからである。」「とにかく、私は将棋を指す。これからも大いに指したい。一つには、将棋ほど精神の若返りに役立つものはないと確信するからだ。」 編集子の言葉。「藤沢桓夫先生は、棋理に明るく、また、棋界通としても知られています。長く大阪に住まわれ、毎日のように将棋連盟に姿を見せておられます。近作の『将棋水滸伝』は大阪に育った棋士の回想譜です。大阪の勝負師の気骨を見事に描き出した快著と申せましょう。」 ◆『人生師友』 大阪 弘文社 昭和45年 藤沢61 (装幀・吉原英雄) 「将棋の虫」p102〜:大木土金花。「セミ・プロ級の将棋指し」「一日中将棋を指して、それで小遣いをかせいで、食っていた」という将棋三段の“くすぶり”の回想話。 「負けぬ男」p104〜:中学時代(今宮中学)からの旧友将棋四段藤野重郎とくすぶりXの話。 「素人の段位」p116〜:某氏が書いた「文士諸君のなかには、棋力もないくせに将棋連盟から段位をふんだくっている人がだいぶいるはずだ。」に抗議をした一文。 「将棋禮賛」p141〜:小さい頃から将棋好き。藤沢が将棋に「本気で興味を持ち出したのは、大学生の終り頃、身体を悪くした予後に伊豆の湯ヶ島の宿に滞在していた時だった。」と回想し、 尾崎士郎が残して行った将棋講座を読んで定跡を憶え強くなったという。 「新手一生 ―升田将棋の在り方―」、「大阪の人・阪田三吉」、「将棋連盟を笑う」が収録されている。 ◆『将棋百話 −わが観戦記・升田幸三伝・勝負師大山康晴−』 大阪 弘文社 昭和46年 藤沢55 「序のことば」によれば、本書は3部構成で、「将棋百話」はサンケイ新聞の連載。第2部は観戦記で「将棋を知らない人々にも一つの人生スペクタクルとして楽しんでもらえるのではないかと考えている」。第3部は升田、大山の人間像を描いたもので、「ある意味での人生論のつもりで書いている。」と紹介している。 ◆『名人物語』 (肖像あり) 東京 大阪教育図書 昭和46年 藤沢115 「伊藤看寿 −華麗緻密の詰め将棋− *着想の妙「煙り詰め」」 「過去歴代の名人中の実力第一人者は」「七世名人伊藤宗看(1706-1761)だろうと言われている」とし、その末弟で「煙り詰め」の作者、死後名人となった看寿について語ったもの。 ◆『大阪自叙伝』 〔東京〕 朝日新聞社 昭和49年 藤沢25 (カット・小出楢重「絵日記」より、装幀・山本耕三) 『大阪自叙伝』は藤沢の「少年時代からの文学的回想録」「文学的自叙伝」であると「大阪の文人たち」に書いている。『私の大阪』(藤沢2586)所収。 「菊池寛先生のこと」p238〜:藤沢の最初の新聞小説は「街の灯」。「夕刊大阪新聞」に紹介してくれたのが菊池であった。恩人菊池と将棋をめぐっての一話。 ◆『随筆人生座談』 東京 講談社 昭和56年 藤沢60 (装画・藤沢桓夫、装幀・小松桂士朗) 「心の遊び」p128〜:郵便将棋をした吉田定一の相手は東京の上林暁だった。一局終了するのに1年くらいかかる郵便将棋を二局さした。 「笑わぬユーモリスト」p185〜:詰将棋に熱中して武田隣太郎、長沖一に呆れられた秋田実の東大生時代を回顧している。なお秋田実はペンネームで本名は林広次である。 「運命のいたずら」p187〜:「胸疾で挫折した」神田辰之助八段の死について触れている。 「奇人変人」p158〜:「将棋好きの私はほとんどの専門棋士と面識があるが、むかしは変わり 者の棋士が少なくなかった。たとえば、明治生まれの村上真一八段という大阪在住の老棋士は(中 略)また対局中に形勢が悪くなると、記録係に時間を聞く癖があり、記録係の少年が「残り一時 間四十分です」と教えると、「ややこしい、分で言え」そこで次の時に「残り七十八分です」と 告げると、「そんな時間はないやろ。はっきり何時間何分と言うんや」と記録係を困らせた。」 「英詩人の色紙」p175〜:将棋の名人戦、王将戦などが打たれた大阪帝塚山の料亭「鉢の木」廃業を惜しんでいる。 ◆『私の大阪』 大阪 創元社 昭和57年 藤沢2586 「天野口伝」p14〜:京都の古本屋で見つけた天野宗歩の写本「天野口伝」が結局宗歩の作品ではなかったという話。 「将棋好き」p104〜:藤沢と将棋付き合いのあるアマの名物男たちを描いている。 「阪田三吉の魅力」p106〜:むかしからの大阪人の習性、人真似嫌いの「びっくりさしたろか根性」を阪田三吉も持っていた。阪田の「創造の意欲、不屈のレジスタンス精神」を賞賛している。 「私の履歴書」p147〜:最終章「時は流れる」で記憶に残る快勝譜などをあげながら、「七十歳を過ぎて、私は自分の将棋にようやく進歩がなくなったのを感じた。」また、寂しいのは「いちばん弱虫」の自分を残して、旧友たちがあの世に行ってしまったことだと、将棋の大野九段、熊谷八段の名前を挙げている。 ◆「心優しい怪物」 『升田将棋選集』第2巻 月報2 東京 朝日新聞社 昭和60年 藤沢1673 渋谷天外が升田幸三を道頓堀の舞台にのせた話、天才升田幸三の鬼手妙手の解釈、座談の名手にして誠実な人柄、升田幸三の人となりについて記したエッセイ。 〜藤沢桓夫の将棋観戦記〜
◆『王将に迫る−木村、升田決戦譜−』 神戸 神港夕刊新聞社 昭和23年 藤沢1694 主催:神港夕刊新聞社、木村義雄前名人対升田幸三八段 観戦記者は第一戦坂口安吾、第二戦藤沢桓夫、第三戦金子金五郎 藤沢が観戦記を書いた第二戦は、昭和22年12月27日、阪急塚口の「神港夕刊」社長竹内重一の自邸で行われた。熱闘10時間、133手で升田八段の勝ち。「百戦練磨のうちに去就淡々の得がたい心境を見事わがものとした達人の姿を目のあたりに見る思いで、僕はひそかに感動した。勝つために、そして、良い棋譜を残して将棋の世界をより広くより高いものとするために、精魂をかけてたたかってくれた両棋士の労をねぎらいたいと思った。この三番勝負も、いよいよ一勝一敗で面白くなった。九州での第三局で果たしてどちらが勝名乗を上げるのだろうか。夜は寒く、雨はまだ降っている。(了)」と綴っている。最終局は122手で木村前名人が勝ち、2勝1敗として終わった。 〜藤沢桓夫の棋譜〜
◆「新春お好み対局 電波新聞社主催 藤沢桓夫対日本将棋連盟五段橋本三治」<新聞の切り抜き、対局中の白黒写真4枚> 藤沢9154 場所は大阪住吉の「鉢の木」、昭和12年、27年の名人戦が打たれた場所。使われた盤は「深潭」というカヤの七寸盤。結果は藤沢の勝ち。(差し手146) 「藤沢先生は東京、大阪を通じて文壇第一の差し手です。東京では最近山口瞳さんが腕を上げておられますが、おそらく藤沢先生にはかなわないでしょう。先生の将棋のよさは攻めとヨセの鋭さにあります。プロとよく指され、また高段者の対局をよくごらんになっていられますから非常に筋がよろしい。芸術家らしい鋭い感覚で、早みえするのも先生の将棋の特色です。欠点を申しますと、ヨセが鋭いだけに、きれいに勝とうと思って指し切られることがときどきあります。また、早みえするために、ときには軽率な手が出て勝ち将棋を逃されることもあります。」(講評 八段 熊谷達人)*橋本三治は大正14年尼崎市生まれ。昭和22年木見九段に入門。 〜藤沢桓夫の創作詰将棋〜
◆『白雨 −創棋会詰将棋作品集−』創棋会編 名古屋 全日本詰将棋連盟 昭和57年 藤沢2631 タイトルの“白雨”は藤沢の命名。題字も藤沢の筆。敬意を表してか最初に藤沢の創作詰将棋がある。作者紹介もある。「藤沢桓夫 明治37年7月12日生 初入選・戦前だが詳細不明 ◇大阪市内で育ったせいもあって、子供の頃から将棋が好きで、六段まで進んだが、好きが昂じて詰将棋を自分で作るようにもなり、百題は作ったであろう。作風は「趣味」を尊ぶ。身体が丈夫ではなく、都会育ちの好みからか。」。p38−41には自作の解説を藤沢が書いている。 ◆『古今詰将棋三百人一局集』 名古屋 全日本詰将棋連盟(発行人) 詰将棋パラダイス編集局(発行所) 昭和56年 藤沢2615 p326、第304番に藤沢の未発表作の詰将棋1作がある。(肖像あり) 〜将棋棋譜・新聞スクラップ〜
◆「将棋棋譜・新聞切抜き帖」 藤沢8036 昭和10年、朝日新聞社が主催した「神田七段対全七・八段戦 熱血譜」の切り抜きや、同じく昭和10年の毎日新聞社主催の「八段リーグ戦により名人位を決定せんとする昭和棋界の最高峰を行く「歴史的の大棋戦」」の金子金五郎八段対花田長太郎八段戦の切り抜きもある。切り抜きに年代はないので明確ではないが、このスクラップ帖は昭和10、11年ころのものと推定する。 〜将棋観戦記者〜
◆吉井栄治から藤沢桓夫宛書簡・藤沢桓夫対山口瞳棋譜 昭和47年12月26日 藤沢7362 「棋譜さっそくお送り致します。ちょうど昨日、原稿送ったところです。いま、順位戦 の原田・有吉を書いています。(後略)」 昭和47年12月4日に“鉢の木”で打たれた藤沢と山口瞳戦の棋譜が同封されている。 先・藤沢桓夫、後・山口瞳。持時間1時間30分。記録:橋本五段。結果137手で先番藤沢五段の勝ち。 | |
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◆『名人戦名局集 −思い出の観戦記−』吉井栄治著 大阪 弘文社 〔昭和47年〕 藤沢1765 序は藤沢桓夫。吉井の観戦記の面白さにふれ、文学を通じた交遊、同人雑誌『海風』のこと、吉井が書いた小説が直木賞候補になったことも紹介している。 ◆『棋士・その世界』中平邦彦著 東京 講談社 昭和49年 藤沢2354 この本の著者略歴によれば、中平邦彦は昭和13年芦屋市生まれ、神戸新聞の将棋担当記者。 藤沢に関係するところを以下に引用する。 「作家・藤沢桓夫氏。将棋五段。文壇一の実力者。詰め将棋もうまい。あるとき、自慢の作品を、どうだ と人にみせていたら、離れたところで雑談していた二上達也九段が振り返り、瞬間に「9筋の歩が要りませんね」。「なあ、三晩も考えて作ったのに一秒で余計な歩をみつけるんや。将棋指しにならんで、ほんまによかったとつくづく思ったで」。P14 「作家・藤沢桓夫さん。戦前、大阪・天満にあった奨励会をのぞいたら、丸刈りの大山四段がいた。大山少年は各人の昼食の注文をきいて回り、実に手際よくさばいていた。「今にして思えば、あのころからよく気のつく、勘のいい人で、現在の基礎が出来とったんやろうなあと思う」。p47 ◆「文壇将棋の思い出」(七)倉島竹二郎 『将棋世界−昭和48年10月号−』 東京 日本将棋連盟 藤沢6018−L 倉島竹二郎は元毎日新聞観戦記者。 「A級の超ド級は滝井孝作、豊田三郎、呉清源、藤沢庫之助の四氏。菊池先生亡きあと、文壇人として最高位にあるのは大阪の藤沢桓夫氏で、藤沢氏は常々今度文壇将棋があれば東京の連中に目にもの見せてくれんと張切っていたそうだが、今回は残念ながら持病のため上京出来なかったという。」p83 滝井孝作は明治27年岐阜県生まれ、一時大阪の特許事務所にいたことがある。代表作に「無限抱擁」がある。滝井と藤沢は会えばいつも将棋を打つ仲だったと「あの友この友」(『人生師友』藤沢61)にある。豊田三郎は明治40年埼玉県生まれ。作家森村桂の父。今は2人とも故人。森村はエッセイ『父のいる光景』(中央公論社 1993)で豊田の遺品に文壇王将、将棋四段の免状があったと書いている。 〜将棋を愛した文壇人・棋友など〜
◆『旦那の意見』山口瞳著 東京 中央公論社 昭和52年 藤沢820 藤沢への献呈本。『有段者 将棋年鑑 昭和44年版』に山口瞳の「将棋と私」というエッセイがある。小学校2、3年で将棋をおぼえ、今の棋力は辛かった昔の級で13級、いまでいうと4、5級と書いているが、昭和47年に藤沢と対局しているのだから謙遜であろう。『続血涙十番勝負』の第九番は大野源一八段戦、文中に“観戦に来られた藤沢桓夫先生いわく、「大野さんに飛車を振らせたのが山口君の敗因です。」”とある。 ◆『将棋一刀斎』高野三郎著 東京 穂高書房 昭和33年 藤沢1757 高野三郎は本名高橋三郎。明治43年大阪市生まれ、平成元年没。作家高橋三千綱の父。この小説は升田幸三を主人公に関東、関西の将棋界を描き、升田の将棋にかける執念と熱情を活写している。小説中、大阪の「新大阪新聞」が企画した貴本名人対升田七段の三番勝負第二局の観戦記事を、藤沢が特別に担当を依頼されたと書いている。「新大阪新聞」の実際の対局は時期が昭和21年、貴本名人は木村義雄名人、三番勝負は五番勝負であった。もし昭和22年であれば、貴本名人は木村義雄前名人。升田七段の実際の段位は八段。藤沢は第2戦の観戦記を書いている。その観戦記は“『王将に迫る−木村、升田決戦譜−』 神港夕刊新聞社 昭和23年 藤沢1694”である。高野はこの本の“あとがき”で藤沢桓夫に将棋をさしてもらったと記し、二人は懇意だったことを窺わせる。 なお『続将棋一刀斎』(藤沢1757)が同じ穂高書房から昭和33年8月に発行された。 ◆『豊田三郎差出書簡』 昭和26年6月7日付 藤沢7265 行き違いでお目にかかることができないが、「将棋のほうの雷名」はかねてより承っています。昨年以来の支部の件(日本文芸家協会大阪支部の件であろうか)と講談社が対局を計画している件でお訪ねしたい。という趣旨の手紙である。豊田は対局には全く自信がないと書いている。豊田は昭和25年から日本文芸家協会書記局長で昭和29年に役職を退いた。昭和26年の初夏に、住吉の藤沢邸で強豪豊田三郎対藤沢桓夫の手合いがあったのかもしれない。 ◆『風雲将棋谷』角田喜久雄著 東京 矢貴書店 昭和22年 藤沢478 角田喜久雄は文壇愛棋家の一人。藤沢文庫の角田喜久雄の著作はこの他に『虹男』(藤沢479)がある。 ◆『西村英二と将棋』宇佐美佐一編 芦屋 西村亮一発行 昭和48年 藤沢1892 西村英二は藤沢の棋友。将棋古文書、古棋譜の蒐集家として有名。藤沢の回想によれば、西村とは大阪平野町のガスビルの学士会倶楽部(東大、京大の卒業生が会員)で知り合ったという。 藤沢を含む大棋会の面々の写真。藤沢の書簡、詰め将棋、西村英二と藤沢の対局棋譜、序文と悼辞は藤沢である。西村と藤沢と対局棋譜は7枚あり、西村の5勝2敗という。 ◆『群流 −あぶりだし詰将棋作品集−』岡田敏著 東京 竢o版社 1982 藤沢1740 藤沢は「うれしい贈り物」という短いエッセイを寄稿している。プロ棋士も一目置く4人の詰将棋作家が藤沢に贈った4作の詰将棋を解くと、詰みあがり図がフジサワの4文字になると紹介している。それが“うれしい贈り物”である。遊び紙に「贈 藤沢桓夫先生 盤上の悦楽 昭和57年5月13日 岡田敏」とある。岡田敏は大正14年大阪生まれ。詰将棋作家。作品集に「清涼図式」昭和57年発行(藤沢1742)がある。*竢o版社の「竅vは“えい”と読む。 〜棋士との交流〜
(名前の五十音順に配列)
<差出書簡> 熊谷達人宛 昭和47年2月28日 退院のお祝い、将棋のこと(書簡2枚) 藤沢7020 昭和48年2月22日 将棋のこと(書簡1枚 棋譜2枚) 藤沢7021 内藤国雄宛 昭和57年9月23日 王位奪還のお祝い (葉書) 藤沢7039 橋本三治宛 昭和48年5月28日 新理事就任のお祝い (書簡1枚 墨書)藤沢7043 <来簡> 加藤治郎 昭和56年9月18日 書簡3枚 「人生座談」のお礼と所感 藤沢7139 谷川浩司 昭和64年1月1日 年賀状 (葉書) 藤沢7247 原田泰夫 昭和63年1月1日 年賀状 (葉書) 藤沢7301 二上達也 昭和62年1月1日 年賀状 (葉書) 藤沢7325 升田幸三 昭和64年1月1日 年賀状 (葉書) 藤沢7329 昭和47年11月29日 大阪に会館を建てることについて、他(書簡13枚) 藤沢7330 〜棋士との別れ〜
◆大野源一告別式 弔辞(草稿) 原稿用紙4枚 昭和54年1月16日 藤沢9133 大野源一は明治44年、東京生まれ、大阪に移り木見金治郎九段門下となる。大正15年初段、昭和4年四段。昭和15年八段。昭和49年九段。昭和54年1月14日没。67歳。藤沢の小説「将棋童子」、「投了図」は大野源一を描いた作品である。以下に弔辞の一部を紹介する。 「大野先生 棋士としてのあなたの偉大なる業績については、今さらここに喋々するまでもないでありましょう。一言で申せば、あなたは「独創の天才」でした。戦後まだ将棋界では振り飛車は邪道とされていました。その中にあって、「何くそ、そんなことがあってたまるか」とばかり、殆ど振り飛車一筋に将棋を指しつづけ、「攻める振飛車」の新定跡を打ち出し、幾多の名局を残して圧倒的な好成績をあげ、A級に在ること実に十六年、今日の振り飛車ブームを将来した先駆者としての大功績は万人の認めるところであり、「振り飛車名人」あるいは「振り飛車の神様」などの綽名で呼ばれるようになったのも決して偶然ではないのであります。(後略)」 ◆熊谷達人(くまがいみちひと)告別式 弔辞(草稿) 原稿用紙3枚 昭和52年4月14日 藤沢9131 大阪市生まれ、天王寺中学から野村六段(当時)に昭和22年入門、昭和24年四段、昭和34年八段、平成10年九段。昭和52年4月12日没。 46歳。 草稿の右上に熊谷の死を悼んだ藤沢の一句がある。「木蓮の花傷めたる雨をうらむ」。以下に弔辞の一部を紹介する。 「このような形で君にお別れの言葉を贈らねばならない現実の残酷さが、今、私の心を暗くします。思えば、君と私との交遊もずいぶん古い。たしか升田現九段の推薦で、君が私に将棋を教えるために、初めて私を訪ねて来てくれたのは、終戦後間なしで、その時君はまだ旧制の天王寺中学校の制服を着ていたのを思い出します。それからの三十余年。私は君の才気煥発の頭脳の廻転の鋭さにしばしば舌を捲きながら、君の天与の棋才を愛し、得難き年少の友として、君に信頼を寄せつづけて来ました。(後略)」 〜棋書と棋士の随筆〜
(排列は出版年の順)
藤沢文庫の数ある棋書等の中から、木見金治郎、阪田三吉、関根金次郎、神田辰之助、大野源一、大山康晴、升田幸三の著作から選択した。 ◆『将棋必勝法 上編』 必死、両必死、必死逃れ、詰物、実践棋譜 名人小野五平先生校閲、天野宗歩先生高門 六段渡瀬荘治郎、七段木見金次郎講解 東京 大阪屋号 斯文館 大正10年 8版 藤沢1893 (下巻もあり) ◆『名人天野 将棋手鑑講義』 八段坂田三吉著 大阪 久栄堂書店 大正12年 藤沢1889 和綴じ本 (*坂田の坂は本文のママとした) ◆『木見金治郎実戦集』 木見金治郎著 (肖像あり) 東京 誠文堂 昭和6年 藤沢1687 巻末に「専門家となるまで」がある。「私は明治十一年六月廿四日、岡山県窪屋町倉敷村(現今の倉敷市稲荷町)の木見慶蔵長男として生れました。」で書き起こし、経過を辿り「大正十四年関根名人から八段を免許され、専門家となって爾来今日に及んで居ります。只今大阪毎日新聞社から将棋を嘱託されて居ります。」と結んでいる。 ◆『関根金次郎実戦集』 関根金次郎著 (肖像あり) 東京 誠文堂 昭和6年 巻末に「名人となるまで(関根金次郎の略伝)」がある。24歳のとき、伊藤宗印の指示で「上方廻り」をし、東の伊藤宗印、西の小林東伯と言われた関西随一の先生と手合いをして二戦二敗で負けたが、四国、九州で修行して3年後、再び大阪に戻り今度は小林東伯に勝利したことなども書かれている ◆『昇段熱血棋集』 八段神田辰之助著 大阪 朝日新聞社 昭和13年 藤沢1690 巻末に「八段になるまで」がある。「私は明治二十六年二月廿二日、兵庫県武庫郡本庄村字深江に、神田庄太郎の三男として呱々の声を挙げた」で始まり、苦闘の連続から「こゝに永い希望であった八段位を獲得することができたのであった。時に昭和十年十月十九日―私が棋士生活を始めてから約二十年目である。」と回顧し、最後に坂田三吉、木見金治郎、東京棋界の先輩への感謝で締めくくっている。神田八段の処女作という。 ◆『振飛車戦法 ―中飛車・四間飛車・三間飛車―』 八段大野源一著 八段加藤治郎監修 東京 野口書店(将棋新書9)昭和28年 藤沢1724 遊び紙に“敬呈 藤澤先生 大野源一”と献辞がある。 ◆『将棋一路』 名人大山康晴著 東京 産業経済新聞社 昭和31年 (新書版) 藤沢1769 遊び紙に“謹呈 藤沢桓夫先生 名人大山康晴”の献辞がある。藤沢が産経新聞の昭和27年7月17日に書いた「新名人大山に期待」が再録されている。p206−207 ◆『勝負の虫』 升田幸三著 (肖像あり) 大阪 朝日新聞社 昭和35年 藤沢1770 「藤沢桓夫先生」で升田は藤沢との奇妙な出会いを紹介した後、「先生の人柄が好きである。まず、感ずることは清潔感。これはもう得がたい先生の徳である。もう一つは、若々しい情熱。それに、あれほどの大家でありながら何か書生っぽさがある。とくに戦後の荒れた世相のなかでは、先生に接しているだけでも気持ちがいい。」「藤沢先生は、こと将棋にかんしては、このわたしを絶対視してくれる。そして将棋を離れると、こんどは友人として何でも注意して下さる。こういうふうに、はっきり区別をつけるゆき方、人生に対する厳密な考え方に、わたしはいつも感心するのである。」と書き、升田が昭和32年に名人になったとき藤沢が餞に書いた祝辞「升田新名人に」を再録している。p197−201 巻末:「わたしの棋歴」は“大正7年3月31日広島県双三郡三良坂町に生まれる。生家は農家。”から“昭和35年(43歳)ひきつづき休場”までの年表。「名人戦の戦歴」第1期昭和13年から昭和35年第19期までが掲載されている。 参考文献 ○窪寺紘一著『日本将棋集成』 新人物往来社 1995 (中之島図書館所蔵:【796−41N】) ○森村桂著『父のいる光景』 中央公論社 1993 (中之島図書館所蔵:【910.26−607N−トヨ】) ○山口瞳著「血涙十番勝負」「続血涙十番勝負」『山口瞳大全 第11巻』 新潮社 1993 (中之島図書館所蔵:【918.68−68N−11】) ○吉井栄治著『名棋士名局集』 弘文社 〔19--〕(府立中央図書館所蔵:【796−454N】) 巻末の「将棋と私」に「私の文学の師であり人生の師である藤沢桓夫先生を紹介してくれたのも彼だった。」と書いている。彼とは織田作之助である。吉井が織田との交友を綴った「中学時代の思い出」は『近代作家追悼文集成』第31巻(ゆまに書房 1997 府立中央図書館所蔵:【910.26−622N−31】)にある。 ○『大阪近代文学事典』日本近代文学会関西支部大阪近代文学事典編集委員会編 和泉書院 2005(中之島図書館所蔵:【910.26−4077N】) ○『現代日本文学全集87 昭和小説集(二)』筑摩書房 1958 “豊田三郎年譜”(中之島図書館所蔵:【220.7−117】) ○社団法人日本将棋連盟ホームページ。棋士の紹介―物故棋士―http://www.shogi.or.jp/ syoukai/index.html ○『有段者 将棋名鑑 昭和44年版』 日本将棋連盟 1969 【藤沢1670】 |
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